「あ、」
「うわっ!」


小さな悲鳴と身体に走った激しい衝撃に、全身から血の気が引いた。今日は少し時間が押していたため、私は無我夢中で急いで掃除をしていた。あんまり集中していて周りを全く見ていなかったせいで、私は誰かと思い切りぶつかってしまったのだ。ぐらりとよろける身体を支えようと思い切り足で踏ん張ったが、結構大きな衝撃だったようで耐え切れず後ろに倒れ込む。それは相手も然りで。

う、うわああどうしよう…。せめて相手がお客様じゃなくトレイントレーナーや駅員さん、あわよくば知り合いでありますように(いや本当はよくないんだけど)という願いも虚しく、私の目の前で尻餅をついていたのは私より幾らか年下であろう一人の男の子だった。


「も、申し訳ございませんお客様!お怪我はありませんか、」
「いえ、大丈夫です!俺よりもお姉さんの方が………あっ!」


顔を上げた少年は私の顔を見た途端何、故か転んだ体制のまま私を指差して固まってしまった。え…何、もしかして知り合い?どっかで会った事あったっけ……いや、違う。知らない。


「あの、何か?」
「死んだ魚のような目!ノボリさん程ではないけど微動だにしない無表情!」
「…は?」
「もしかしてほたるさんですか!?」
「すみません喧嘩売ってるんですか?」


は、しまった、驚いてつい口調が荒ぶってしまった。いやでも、いきなりなんて事言うんだ失礼じゃないのこの子。初対面の人間相手にえらいずけずけと…。顔に関しては生まれつきなんだから仕方ないじゃないか。全く以って大きなお世話である。

………って、いや、違う。それも重要だけど、そうじゃない。そんな事よりもこの少年、どうして私の名前を?私達は初対面のはずだし、清掃員の私はネームプレートも付けていないのに。


「あの、何で私の名前…」
「え?…ああ!すみません、驚かせちゃいましたよね。俺しょっちゅうトレイン乗ってて、ノボリさんやクダリさんと世間話する程度には詳しいんですよ」
「…はあ」
「二人の話の節々に出てくる女の人の特徴とお姉さんがあまりにそっくりだったから言ってみたんですけど、まさか本当に本物のほたるさんだったなんて思わなかったなあ」


ああなるほど、と納得しそうになってしまったが、この少年が先程口にしたその私の特徴とやらを思い出す。死んだ魚みたいな目に、微動だにしない無表情…。私の知らない所で見ず知らずの人間になんて事を吹き込んでくれてるんだ。いやある程度自覚はあるけど、それ本人に言っちゃだめだろ。恐らく吹き込んだのはクダリさんだろうけど…事実とはいえもう少しまともに紹介出来なかったんだろうか。あの人私の事好き好き言うけどほんとは嘘なんじゃないの。まあ、心にもないお世辞を言われるよりは幾分かましだけど、ちょっとむかつく。


「あ、俺トウヤって言います!改めましてよろしくお願いします。ほたるさん」
「こちらこそ」


さわやかな笑顔で握手を求められたので、やんわりとその手を握り返す。へえ、トウヤって珍しい名前だなあ。でもなんか初めて聞いた気がしない…というか、あれ、トウヤってなんかすごい聞き覚えあるような。しかもつい最近、テレビとか新聞とかで。…………え、あれ、まさか。


「……あの、まさかとは思いますが、トウヤさんってもしかしてイッシュリーグチャンピオンの…?」
「あれ、やっぱ名前くらいは皆知ってるのかなあ。まあチャンピオンと言っても、今はアデクさんに代わりをお願いしてますけどね」


う、うわあ、本物のチャンピオンだ…!イッシュリーグチャンピオンが私の目の前にいるなんて信じ難くて、思わず口を半開きにして見入ってしまった。すごい、私イッシュ最強のトレーナーと握手しちゃったよ。だからってもう一生この手は洗わない!とかはないけど。…にしてもトウヤさん、私より幾分が年下のはずなのにチャンピオンと聞いた途端なんかすごい貫禄を感じる。さわやかな笑顔に余裕さえ見えるわ…。


「はあ…すごいですね。まだ若いのに」
「やだなあ、ほたるさん俺とそんなに変わらないでしょ?」
「だからこそすごいじゃないですか」
「ほたるさんだってすごいじゃないですか、サブウェイマスターの奥さんだなんて!」
「いやそんな、……って、は?」


え…何?トウヤさん今何て言ったの?聞き間違い?聞き間違いじゃなければ今なんかサブウェイマスターの奥さんとか奥さんとか奥さんとかそんな恐ろしい言葉が聞こえた気がするんだけど。


「あ、あれ?怖い顔…もしかして違うんですか?」
「断じて違います有り得ません」
「え?おっかしいなあ。本人から聞いたのになー」
「ちなみに白と黒、どっちに」
「え?あ、白い方ですけど」


ですよね。聞くまでもなかった、というかむしろ何で聞いた、私。クダリさん絶対許さない。


「あの人普段から謎ですけどたまにほんとものすごく意味分からない事言い出すんで真に受けないでください」
「へえ、仲良いんですね!」
「違います!」
「…なんかほたるさんとクダリさんの二人の関係少しだけ分かった気がするなあ。少なくとも奥さんでない事は」
「とりあえずそれだけ分かってもらえれば充分ですけど、仲良いっていうのも誤解ですから」
「あはは、ほたるさんって面白い人ですね!」


なんか、あんまり分かってもらえてない気がするのは気のせいかな…。というか、からかわれてるような。悶々としていたその時、トウヤさんのライブキャスターが軽快な音を立てて着信を知らせた。


「…あ、チェレンだ。ほたるさん、ちょっとすみません」
「いえ、どうぞ」
「チェレン、どうかした…は?約束?約束って何の………あ、…あー!ごめんすっかり忘れてた!うん、今から行くから!!…すみませんほたるさん、俺もう行かなきゃ」
「あ、はい。私の不注意でお時間取ってしまってすみませんでした」
「や、俺も前方不注意だったし気にしないでください!それよりも俺、また話し掛けても大丈夫ですか?」
「?…はあ、どうぞ」
「やった、ありがとうございます!じゃあほたるさん、また今度!」


そう言うとトウヤさんはものすごい勢いでホームへの出口へ全力疾走していき、あっという間に見えなくなってしまった。そんなに急ぐぐらい大事な約束忘れちゃだめなんじゃ…。


「は、時間が…!」


しばらくぼんやりと立ち尽くしていたけど、はっとして時計を見遣る。気が付けば随分と時間が進んでいて、私は急いで定時に清掃を終わらせるために再び作業に取り掛かった。



30.清掃員とチャンピオン





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