今日も平和な稲妻町に鳴り響くのは、サッカーが強いことで有名な雷門中の鐘の音。雷門中に通う私にとってそれは今日の分の授業が終わったということで、いつもなら友達とのんびり喋りながら下校するのだが、今日は違った。
「ちょっとすいません!」
放課後で込み合う廊下と階段を全速力で駆ける私の姿は、何とも間抜けだったと思う。だって着ているのはジャージでもなく、通常の制服姿なのだから。なんとかスカートがめくれないよう気をつけるけど、女の子としては充分はしたない。もしかしたら他のクラスの友達や先輩に見られていたかもしれない。でも今の私にはそんなこと考える暇もないぐらいどうでもよくて、息を切らしながらようやく目的地―水道に辿り着いた。
早速持っていたカーディガンを水に浸し、ごしごし洗う。6時限目の美術で油絵の具を使った時、それが付いてしまったのだ。すぐに洗えば良かったものを、私は面倒臭いからと放ったらかしにしていた。それから数十分、すっかり乾いてしまった油絵の具。授業が終わった後洗おうとしたが、水道が混んでいて洗えなかった。そしてそのままHRが始まってしまい、私はカーディガンを脱いだワイシャツ1枚にブレザーを羽織った状態で何とか耐えた。でも今日は風が強く寒いので早くカーディガンを着たい。だからダッシュで校内で1番広い水道まで来たのだ。
もう春先だとは言え、お湯が出ない為水で洗うしかない水道は冷たく感じた。袖口が濡れないようワイシャツは肘まで捲りあげ、ブレザーは邪魔だからと脱いで水道の上に置いた。
ずっと立ちっぱなしで洗っていたから流石に疲れてきて、蛇口を捻って水を止めた。カーディガンを広げて改めて見るけど、予想通り絵の具はあまり落ちてはくれなかった。仕方ない、クリーニングに出すしかないかあと考えていると、近くで笛の音が聞こえた。気になってグラウンドを見てみると、それはサッカー部によるものだったとすぐに分かった。
革命だ何だのって忙しかった雷門中サッカー部も、今はやっと普通のサッカーを楽しめてるみたい。私のクラスメイトにもサッカー部の人がいるから、そんな変化が薄々感じとれるのだ。でも、何より近い存在と言えば―。
「はっくしゅん!」
風が強くなってきて、目にもグラウンドの砂が入ってしまった。そんな中薄っぺらいワイシャツ一枚の私は、寒くて寒くて凍えそうだった。
早く帰ろうと、水気を帯びたカーディガンを絞ってブレザーも腕に掛ける。わざわざ捲ったワイシャツを直すのが面倒で、そんな状態のままブレザーを着るのは嫌だったのだ。
「みょうじ?」
後ろから声をかけられ、その主が誰なのか分かるまで多少時間がかかった。
「…神童くん」
神童拓人―雷門中サッカー部キャプテン。私と神童くんは家が近所なのだ。幼い頃神童くんの豪邸に興味津々だった私は、そっとあの広いお庭に忍びこんだ。今はもう塞がれてしまったが、あの頃は子供ひとり通れるくらいの小さな穴が庭先にあった。それをくぐってから目にしたもの全てが、まるで違う世界に来たような豪華なものばかりだった。
赤白色とりどりの薔薇に、大きな池には鯉が泳いでいた気がする。
勿論後で執事と思しきお祖父さんにこってり叱られたけど、私はそこで初めて神童くんに出会ったのだ。
神童くんはその時ピアノを弾いていて、その音色に私は感動したのだ。綺麗で、なめらかで、神童くんの事情なんか何にも知らなかった私は「すごい!上手!ピアニストになれる!」と絶賛したものだ。今思えば、神童くんのことなんか何ひとつ知らないで軽々しく言っていた自分を殴りたくなるが。
「久し振りだね。部活?」
「ああ。口に砂が入ったから…うがいしようと思って」
「そっか。サッカー、頑張ってね」
口の中がじゃりじゃりする、と顔を歪めた神童くんは何だか可愛かった。
胸の辺りがドキドキする。心拍も心なしか早い気がする。神童くんとこうして話すのは、本当に久し振りだ。もしかしたら小学生以来かもしれない。うん、それにしては私ちゃんと話せてて凄いじゃん、なんて自画自賛してみた。それじゃあ、と校舎に向かおうとした私の背に、また神童くんの声がかかった。
「みょうじ!」
私が振り返ったのを確認してから、神童くんは着ていたジャージのチャックを下ろし、脱ぎ始めた。何だろう、と見ていると、みるみるうちに神童くんは半袖半ズボンの、雷門中ユニフォームへと変わっていた。
そして差し出された長袖のジャージに、私は何が何だか分からなくなる。それを見透かしたかのように神童くんは笑うと、ジャージを持っている右手を私に押し付けた。
「…これ。そんな格好じゃ寒いだろ?」
その言葉で漸く私は状況を理解した。首をこれでもかって程横に振った。
「え、いいよ!そんな!悪いし…神童くんが寒いでしょ?」
すると神童くんは眩しいくらいの笑顔で言った。
「俺は大丈夫、どうせ暑くなるし。遠慮しなくていいから、着とけ。な」
ここまで言われるともう断れない気がしたし、実際こんな格好で凍えそうだったのは何を隠そう私だ。
「ありがとう…洗って返すね!」
ああ、と微笑んだ神童くんを見ると、もっと話したいなあなんて思っていた。我が儘だと分かっていながらも、神童くんは昔から何も変わっていなくて安心したのだ。
「…神童くん、楽しそうだね」
「ん?ああ、サッカーは楽しいからな」
そう言った神童くんは本当に楽しそうだった。そっか、と呟いて早速借りたジャージに腕を通してみた。案の定ぶかぶかで、おまけにさっきまで神童くんが着ていたから恥ずかしくて堪らなかった。けど暖かくて、心までぽかぽかになってゆくようだった。これも神童くんのお陰かもしれない。
それじゃ、と言って水道の方に走って行った神童くんの背中を見送って、私も校舎の方に歩きだした。
最後にちらっとだけグラウンドを見ると、マネージャーだろうか、ひとりの女の子が神童くんに話しかけていた。いいなあ、楽しそうだなあ。一瞬私もマネージャーになれば良かった、なんて考えが頭を過ぎったけど、それはいくらなんでも身勝手過ぎるかと思い直した。