静謐さが佇んでいるような、美しい月夜の晩。
菊様と私しかいない、大きな御屋敷には、当たり前だけれど、恐ろしい程に人の気配が無く、とても寂しさを感じられた。
私に与えられた隣の部屋は、御屋敷の主で在る菊様の御部屋である。
夜も更けに更けて、布団に横に成ったと云うものの、全くと言って良い程に、寝付ける事が出来なかった。
「(…お水でも、飲みに行こう、かな)」
そう考えて、成る可く音を立てないように気を付けながら、緩やかに布団から抜け出して、廊下に出る為に襖に手を掛けた。
此の様な時間に、日頃の激務による疲労で、お休みに成って居るで在ろう菊様を起こす事があっては成らぬ と気を引き締めながら、廊下に一歩を踏み出した。
嗚呼、だけれど、夜風に晒されて冷えた木の床は、みしり、と鈍く音を響かせたのだった。
菊様を起こしてしまっただろうか―――…びくり、と躯の動きを止めて、隣の部屋から物音がするか意識を研ぎ澄ます。
数秒か数十秒か、暫くの間、何も音がしなかった事を確認し、安堵からほうと小さく息を吐き出して、次の一歩を踏み出した。みしり、また廊下が、軋む。
「おや、名前。……こんな夜更けに、部屋から出るなど、感心が出来ませんね」
「―――…っ……!」
不意に背後から聞こえて来た、聞き慣れた低く、穏やかな声色に、私の肩はびくらと跳ね上がった。
解りきっているけれど、声の主を確認する為に振り返る。
すると其処には、廊下の縁に腰を掛けて、私を見上げ居る菊様が居らっしゃった。
西洋の文化が染み付いた所為か、最近では見慣れてしまった軍服のシャツを緩く羽織り、上着は廊下に投げ出されるかの様に置かれ、口許には煙管が携えられて居た。
ゆらりゆらり、菊様の唇から、煙りがたゆたう。
「…菊、様」
「ふふ、何ですか、名前」
何故だろう、必要以上に口内が渇き、どくりどくりと心臓が早鐘を打ち始める。
小さな声で名前を呼べば、菊様は美しい真っ黒な双眸を細めながら、微笑みを浮かべて私の名前を呼んで下さった。
時が止まってしまったかの様に、何時もとは―――…何かが違う雰囲気の菊様に、見惚れて仕舞った。
とんとん、と煙管の灰を地面に落とし、私からは死角に成って居た場所から菊様は徳利を取り出して、其れをゆらゆらと揺らし始めた。
「ねぇ、名前。貴女、この様な夜更けに、何処へ行こうとしていたのですか?」
「あ、の………台所へ、お水を頂きに、行こうかと思っていました」
「おや、喉が渇いておいでで。――…なら、丁度良かったじゃありませんか」
「え……?」
くすくすと零れる笑みを抑える事無く、菊様は、艶やかに微笑みながら、空いて居る腕で突っ立って居た私の腕を引っ張った。
急な出来事に対応が出来ず、引っ張られた反動で膝から崩れ落ち、菊様の足の上に座らされた。
腰に腕を回され密着した体勢に成り、驚きと戸惑いと羞恥を抱きながら、菊様の顔を見上げると、にやり、と云った音が相応しい笑みを浮かべて、唇を開かれた。
「此処に、飲み物がありますよ、名前」
「え…、菊さッ………!!」
そう告げられたと思いきや―――、菊様は徳利の中身を自らの口内に含み、そのまま、私の唇へと、有無を云わさずに重ねて来たのだった。
菊様の唇から、私の中へと送られて来るものは日本酒で、舌先がかっと灼ける様に感じた。
「んン…っ、…!」
「ふ……、」
唇が、舌先が、喉が、あつい。
呑みきれない日本酒が喉元から滑り落ちて、寝間着をじんわりと濡らして云った。
ああ、嗚呼、…あつくて、たまらない。
薄く開いた私の唇の隙間から、するり、と菊様の柔らかい舌先が侵入し、私の舌先を絡めとった。お酒は、もう、送られて来ない。
だけれど、菊様は、私を離してくださらなかった。
「ふ…、…んぁ…は…っ、」
「…………名前、」
呼吸困難に成ってしまいそうで、必死に唇を開くと、菊様に舌先を絡め取られて、阻止されてしまう。
私は、菊様に、呑まれて、呑まれて。
あつい、くるしい。
そんな中で、菊様は小さく私の名前を呼んでから、幾度が音を立てながら唇を啄んで、最後に下唇をやんやりと噛んでから、ようやっと解放してくれた。
嗚呼、酸素が足りずに脳内はぼんやりとして、躯には力が入らずに、くたりと菊様の胸元に頭を預けてしまう。
「はっ……、はぁ…、菊、さま…」
「……喉は、潤いましたか?」
「!……、し、知りま…せん…っ」
やんわりと頬を撫でられて、意地悪く問い掛けられた言葉に恥ずかさが勝ち、失礼だとは思いながらも素っ気ない返事をしてしまった。
其れに、まだ呼吸がまま成らず、荒く肩を揺らしながら、必死に酸素を躯に巡らせる。
「――……名前」
菊様は私の両頬を手のひらで包み込み、私に視線をあわせて、また、艶やかに厭らしく、微笑みを浮かべられて、唇を開かれた。
「―――…まだ、夜は、始まったばかりですよ?」
嗚呼。
そのまま私はまた唇を奪われて、今日はもう、菊様に捕らわれてしまったのだと、ぼんやりと認識して、菊様の背中に腕を回したのだった。
静謐さが佇んでいるような、美しい月夜の晩。
菊様と私しかいない、大きな御屋敷には、恥ずかしさに呑まれた艶の在る音が、響いて居るのだろう。

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(もう、にげられは、しない)

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