また、だ。この場にいては駄目だと何度も頭の中でサイレンが響く。私は目の前にいる女中から目を背けて、自分の部屋へと駆け込んだ。そして襖を全部しめて、部屋を暗くして布団に潜り込んだ。ああ、もう嫌だ。外に出るんじゃなかった。しかし後悔したのはもう遅くて、涙がじわりと溢れた。
これも全部、自分の特異な体質のおかげだ。それは一定の時間、相手の目を見続けると、相手の心の声が見えてしまうというもの。心の声は見えるものであるから、目を瞑ってしまえば見えないし、そもそも相手の目を一定の時間見なければ心の声は現れない。しかし先ほどは目を見続けることしか出来ず、目を背けることも出来なかった。
彼女の心の中の言葉は、私への嫌悪感がありのまま現れていた。それに、あの目で見られてしまえば誰だって目はそらせないだろう。涙が布団に染みていき、広がっていく。このまま夜を過ごしてしまえばきっと忘れるだろう。私は目を閉じようとした。

「名前、起きてるかい?」


この優しい声は、おねね様だ。私はゆっくり起き上がって、涙を拭って襖を開けた。

「起きております、どうされましたか」
「どうしたっていうのはこっちの台詞だよ!女中の子から聞いたよ、さっき見かけて、挨拶したら泣きそうな顔して自分の部屋に帰っちゃったって」
「すみません…」
「もしかして、聞いちゃったのかい?」

おねね様は、私がそういう体質であることを知っている。他に知っている人物は秀吉様と三成だけだ。おねね様は申し訳なさそうにそう尋ねると、すっと私の部屋に入って襖を閉めた。

「言いたくなかったら言わなくていいけど、一人で抱え込んじゃ駄目だよ?」
「また、前と同じことです。もう慣れました」
「前と同じ、ねぇ…。名前、嘘言っても目が赤いからバレバレだよ」

おねね様は私の目に手をあてて、雫石をきゅっと拭った。その手はまるで母親の手のような暖かさであった。

「ねぇ、よく考えてみてごらん。世界中のみんながみんな名前のこと好きだったら変でしょう」
「確かに、変です」
「ね?だから、名前のことが嫌いな人がいっぱいいるのは悲しいけど当たり前のことなの。でも名前のことが好きな人はもっといっぱいいるよ。名前は人の気持ちが見えてしまうだけなの、だから考え方の問題だよ!」
「そう、ですよね。すっきりしました、おねね様ありがとうございます」
「いいんだよ、お礼なんて!さて、もう遅いから…」
「おねね様」
「ん、どうしたの?」
「…今日は一緒に寝てくれませんか」
「名前は甘えん坊さんだねぇ、良いよ、
一緒に寝ようか」


おねね様はくすくすと笑って、一緒に寝ることを許してくれた。おねね様は何年ぶりだろうねぇ、と笑っていたが、私には昨日のことのように思えた。さて、おねね様に初めて会った日はいつだったか…そんなことを考えているうちに、私は眠りについた。

ぼんやりと庭を眺めていると、後ろの方からどたばたと走ってくる音がした。どうにも今日は体がだるい。
今朝起きたら、隣にはおねね様の姿はなく、太陽の光が部屋を照らしていた。ずいぶんと寝ていたらしい。おねね様は優しいから起こさずにいてくれたのだろう。しかし、寝過ぎて気持ち悪い。
どたばたと走ってくる音は私の真横でぴたりと止んだ。私は視線を庭から真横へと動かすと、その人物はどさっと私の隣へ座った。

「よう!名前!お菓子持ってきてやったぞ!どうせ昼飯食ってないだろ」
「正則か…ありがとう」

正則は何だその反応は!やらなんやらぶつぶつ言っていたが、手に持っていた饅頭を私に渡してくれた。ふと、正則と目が会って、顔を見ると頬に傷があった。そのまま目を離さずにいると、彼の心の声が見えてしまった。しかし彼の心の声は『饅頭食べないのか?』だ。私はそれにくすくす笑ってしまった。

「何笑ってんだよ!」
「饅頭、有り難くいただくね」

正則の心の声は単純だから、見えても悪いことは一度もなかったし、これからも悪いことは無いだろう。正則は納得がいかないという顔をしていたが、すぐに饅頭を食べ始めた。

「そうだ正則、頬に傷が付いてるよ」
「んぁ?別に気にしねーからほっとけ」
「えー、せっかく男前な顔なのに傷が付いてたら勿体無いよ」
「まじ!?どこらへん?」

ここらへん、と指でさそうとした時、後ろに誰かいるのが見えた。私は手を下ろして後ろを見た。

「ここにいたのか」
「おっ、清正!お前も饅頭食べる?」
「一つくれ」

清正は正則がいる反対側の私の隣に座ると、正則から饅頭を受け取った。なんで隣に来たのだろう、私は怖くなって下を向いてしまった。

「それ美味いだろー?」
「ああ、確かにな」
「正則、」
「あー、ちょっと俺用事思い出した!名前、また後でな!」

助けを正則に求めようとしたが、彼はそそくさと去っていってしまった。私は耐えきれなくなって、立ち上がろうとした。が、腕を握られて立ち上がることが出来なかった。私は恐る恐る清正の顔を見た。

「清正、私もちょっと用事が…」
「名前」

私の名前を呼んだ清正は、しっかりとこちらを見ていた。私もその目から視線が外せなかった。初めて彼の目をまじまじと見た。清正は何を考えているか分からない故に、私は心の声を見ないように、彼の目を見ないようにしてきた。しかし今は、じっとこちらを見ているし、握られた手が熱を帯びている。とても目が離せなかった。

「どうしてお前は、俺の目を見て話してくれない」
「…ごめん」
「謝らなくて良いから、理由が聞きたい」

そろそろ見えてしまう、と頭の中で思った。視線を外さなくては。しかし彼は手を伸ばしてきて、頬に触れた。とても優しい手つきであったので、私は顔がこわばるような気がした。でも駄目だ、私はその手を振りほどこうと手を伸ばした。

「名前!待たせたなー!」

その時、ちょうど良いタイミングで正則が現れた。すると清正は手をすっとどかして、何事もなかったように振る舞った。私は隙を見て立ち上がり、入れ違った正則に用事を思い出したと言って逃げた。

「どうしたんだ?名前」
「さあな…」

自分の部屋に戻ると、心臓がバクバクと鳴っていた。これもきっとあの清正のせいだ。あと少しで心の声が見えてしまうところだった。それに、先ほど触れられた頬からじわじわと熱を帯びている。今日の清正はどうしてしまったのだろう。それに私もぐるぐると清正にされたことが頭を回っている。これもきっと寝過ぎたせいだ、きっと。私はこのもやもやをおねね様に話に行こうと部屋を出た。
→続く