水底で朝を待つ |
これ、今日のホテル代。ここに置いておくから。 その淡々とした声に、眠りの海の中を漂っていた俺の意識が外側へと引っ張られた。 シーツのサラサラとした感触に、無臭の空間。 息を深く、胸で吸ってから目を開ける。 けれど、確かに俺に声をかけた人の姿は見つからず、代わりに枕元に一万円が置いてあった。 桑染色の、薄っぺらい紙。 ポツン、と真っ白なシーツの上に置かれていて、その紙幣に描かれている人物は所在無さげにしている。 「・・・。」 いつも通り。 さっき肺に取り込んだ空気が、ふう、と重量を増して吐き出された。 同じ空気なのに重たく感じるのは、俺の暗い感情が含まれたから。 目を覚まして、真っ先に俺の視界に入ってきてほしいものは、こんなものじゃない。 こんな無機質な表情を浮かべている偉人ではなくて、俺が欲しいのは確かに温もりを感じる普通の大学生の寝顔。どこにでもいる大学生かと聞かれたら、違うけれど 亜麻色の髪をいつも跳ねさせ、たくさんの人の目を引く容姿の美青年。 そして、俺も彼の容姿に引かれてしまったうちの一人。 笑ったとき、猫のように目を細くするところが好きだった。 眠いとき、人の肩を枕がわりにするところとか。 俺を見かけた時、嬉しそうな声で名前を呼んでくれるところとか。 前は、あんなに近くにいたのに。 むしろ今じゃ、肌と肌を重ねる程近くにいるのに。心はあの時より、ずっとずっと離れてしまった。 俺、どこで間違えちゃったんだろう。 「あ〜、原、お前一限サボっただろ〜!」 「ご、ごめ〜ん。起きれなかった。」 大学の友人に食堂で声を掛けられいつものようにその人と同じテーブルに座る。 俺が出られなかった講義の代筆をやってくれたらしい友人は「次は俺のやれよ」と冗談めかしながら言ってきた。 俺が起きたのは、とっくに一限が始まった後だった。 朝の10時。 ホテルのチェックアウトギリギリにホテルを出れたけれど、彼は一限に出れたのだろか。 「あの、河内は…?」 「河内?ああ、あいつ一限出て一旦家帰ったよ。午後また来るって。」 「そう・・・。」 どうやら彼はきちんと一限を出れたらしい。 俺を起こしてくれても良かったんじゃないの、と思うけれどそんなこと言えない。 彼が俺に優しさを向けるなんてこと、もう無くなっていた。俺は友人からただのセフレに成り下がったんだから。 「しっかし、不思議だよなあ。」 「ん?」 「お前らは二か月くらい前まではすっげー仲良かったのに。」 俺が一番触れてほしくないことを、彼は言ってきた。 「喧嘩でもしたの?」と俺に聞いてくるが、俺は苦笑を浮かべることしかできない。 喧嘩はしてない。 したのはセックス。 男同士で。 それからズルズルと、その関係は続いている。 俺は彼の誘いに断れない。 どんなにダメだと思っていても、彼に触れられた瞬間に全てがどうでもよくなってしまう。彼が俺に冷たくすることも、名前を呼んでくれないことも、もう以前のような関係でないことも、その瞬間に忘れられる。 だって、彼は確かにここにいるし、 俺は彼の瞳の中に映っているのだから。 そして後悔する。 それらが終わった後、どうしようもないくらいの喪失感が俺を襲い、ずぶずぶと身体が地面に沈み込み、すべてを失ったと知る。 彼は知らないだろう。 俺が一人で目を覚ました時、全てを後悔し、子供のように涙を溢し続けていることも、悲しみに胸が塞がれ呼吸がままならなくなることも。 …俺はどこで間違えたのかな。 友人の先に進もうと欲を出した罰かな。 もう、前の笑顔を見ることは出来ないのかな。 深い海の中、俺はいつも貴方を探している。 貴方の声を探して、夢の中を漂っている。 その声が聞こえて目が覚めた時には、もう貴方はいない。 そしてまた、いつものようにあの偉人と睨めっこをしながら涙を流す時間がやってくるのだ。 あなたは知らないけどね。 - - - - - - - - - - いつか攻めと受けが結ばれる日はくるんでしょうかね。 |