5
俺の肩に手を添えたまま、お父さんは俺を家の中に入れた。
壁にかかっている絵画は俺の知らないもの。また新しくなっている。
花瓶には藤の花が生けてあった。
そして、前と変わらない、家の匂い。
お父さんが「ただいま〜」と廊下に向かって声をかけた。侑くんは、さっさと靴を脱ぎ始めていて無言。
俺も靴を脱ごうかな、と思っていたらパタパタと可愛らしいスリッパの音が聞こえてきて、体が固まる。
あの人の足音だ。
「おかえりなさい〜!」
スリッパの音と共に近づいてきた綺麗な声。
そしてすぐにその声の主が現れる。
長くて艶のある黒髪を揺らしながら、真っ赤な唇に弧を描く彼女。
お父さんと一緒で、歳を感じさせないその人は相変わらず美しい人だった。
長い手足はスラッとしてモデルのようで、その姿勢の良さから気品すら感じられる、
俺と侑君の、お母さん。
「久しぶり、美紀子。調子はどう?」
「貴方が帰ってくるのずっと楽しみにしてた」
彼女はうっとりとした表情を浮かべて「本当にお帰りなさい」と言った。
お父さんのすぐ近くにいるのに、俺は見向きもされないまま。
それに安心しながらも、やっぱり、寂しくなる。
わかっては、いたけどね。
そっとお父さんの腕を肩からどけて壁の方に寄った。
二人の邪魔になってはいけないから。
「涼。」
すると、侑くんが俺に声をかけてくれた。
その声に顔をあげると、靴を脱げ、と目で言われる。
あ…
「あら、侑介。ただいまくらい言いなさいよ〜!あなたにも本当に会いたかったんだから!」
侑くんの声に反応してか、お母さんは侑くんを振り返った。
俺はそれにまた、動けなくなる。
いつ、お母さんがこちらを見てくるかわからないから。
ドクドクと、嫌な音を立てる心臓。
俺は自分の足元をジッと見ながら、震える両手をギュッと握る。
ああ、だめだ。
普通でいないと。
普通に、いつものように、笑顔で。
玄関の壁際にずっといたら、また…
「ところで貴方はそこで何をしてるの?ずっとそこに突っ立って。」
・・・ほら。
俺の馬鹿。
お母さんの言葉に、心臓を氷柱で刺されたような痛みが全身に走った。
冷たい声。
明らかに、俺に向けられたもの。
恐る恐る顔をあげると、切れ長の目がこちらに鋭い視線を向けていた。
「あ・・・、」
その視線にまるで身体が自分のものじゃないもののように、固まってしまった。
声がうまく出てくれなくて、言葉が詰まる。
「やあだ、言葉もしゃべれなくなったの?大丈夫?」
「・・・美紀子。」
「心配してるだけじゃな〜い、久々のおうちで緊張してるの?涼ちゃん。」
涼ちゃん。
お母さんは俺をそう呼ぶ。
お父さんの制止にクスクス笑うお母さん。
俺にゆっくり近づいてきて、スッと俺の顎に指を添えた。
ひんやりしている彼女の指先
ネイルで華やかに手入れされている爪が、俺の肌に微かに触れて身体が震える。
喋らなきゃ。
お父さんが気を遣う前に。
そして、お母さんの機嫌を損ねる前に。
乾く喉を潤すようにして、唾を飲み込む。
ゴクリ、とやたら大きな音を立てながら喉を通る僅かな水分。
そして、カラカラな声で、
「ただいま、かえりました」
と、彼女に呟いた。
彼女の目を、俺は見ることができないまま。彼女の、唇を、とにかく見ていた。
彼女が俺の目を覗いて来たらどうしようかと、恐れながら。
こんな自分、本当にきらい。
お母さんにこんな態度しかとれない自分が、本当に。
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bkm