元天使、お休みを頂きました。 | ナノ
07

その日の夜は、雨に打たれたせいか、死にかけたせいかいつもより身体がクタクタだった。

明日のための大学の課題を終わらたあと、さっさとお風呂に入り寝床につく。
時刻はまだ23時だったが、眠気が限界だった。

もうこんな時間だし、彼には、明日にでも電話をしよう…。

日課のお祈りを終わらせた後、目を瞑りながら、羊は明日の事を考える。
彼、というのは、今日傘を貸してくれたあの美青年だ。

でも明日も平日だから、電話を掛ける時間を考えたほうが良いな、と思っている間に、気付けば規則正しい静かな寝息を立てて、羊は意識を手放していた。

・・・のはずだったが。


「やっぱり、人間になってもお前は美しいね」


その声と言葉に、羊はハッと目を覚ました。
つい先ほど羊は寝室で眠りについた筈なのに、目を覚ますと、どこか広い部屋の柔らかいソファの上に横になっていた。羊は、周りを見渡しながら、その声の主を探す。


「ミカエル様…。」


声の主は、すぐ近くに腰かけていた。
羊が横になっている横長のソファと目の前に一人掛けのソファがあり、そこに膝を立てながらこちらを見ている。

羊は寝顔をどのくらい見られていたのか、運命的な美しさを持つミカエルを前にして恥ずかしくなり、顔を右手で覆う。

が、それはほんの数秒で、すぐに身体を起こし、身なりを整えた羊は、ミカエルと向かい合った。


「…あなたにそのような言葉を頂くと、居たたまれなくなってしまいます…。」


先ほど、ミカエルに言われた”美しい”という言葉に対し、羊は困ったように微笑む。
ミカエル様と比べたら自分はその言葉に値しないというのに。
その言葉にミカエルは首を傾げた。


「何故?嘘は言っていないよ」

「存じ上げております、ただ、…。いえ、やはり、忘れてください。」


この感情を上手く説明するのは難しい気がして、諦めた。

ミカエルは羊に対し特に強い愛情を注いでおり、それがわかっているため、羊にとって外見を褒められるのは過大評価な気がしていた。

しかしそれはミカエルの言っていることが間違っていると否定することになり、それもまた違う気がして反論するのをやめたのだった。


「昨日ぶりですね、今日も会いに来て下さるなんて嬉しいです。」

「お前がいないこっちは暇だからね」

「おや、それなら私がいなくても仕事は回ってるという事ですか?昨日は文句を仰っていたのに。」

「そういうことじゃない。仕事は回ってないよ、昨日言ったでしょ。」


笑いながら冗談を言っていると、ミカエルが大きなため息をついた。
事実、昨日はミカエルがひたすら部下たちの文句を羊に話していて非常に騒がしかった。

ミカエルが天使の文句や愚痴を言うことは少なくなく、過去に一度『人間界の聖書には人の悪口を言ってはいけないという教えがあるんですよ』とミカエルに伝えたが、『僕は天使だから良いんだ』と謎の屁理屈を言っていたから咎めるのを諦めている。


「昨日も言ったけど、早くお前が戻ってきてくれたらって思うよ。人間の一生って今は長いと100年もあるけど、そんな要らないでしょ?もう20年経ったし、充分じゃない?」

「えっ、要りますよ…!100年生きる事、目指してるんですからね私は」


日本の男性平均寿命は82歳だから結構頑張らなきゃだけど…。

時々ミカエルはさらっと怖い事を言うため、そのたびに羊はギョッとする。まるで子供のように純粋無垢な瞳で羊をじっとみながら、「早く死んでくれないかなぁ」なんていう事もある程だ。怖すぎる。


その時、ふと今日の交通事故未遂を思い出した。

まさか…。いや…、でも…。


「ミカエル様、今日、ちょっと私の人生に介入しようとしたりしました?」


上司を疑うのは良くない。本当に良くない、と思いながら、それとなく聞いてみる。

ちなみにいうと、羊が死にかけたのは今日が初めてではない。
年に1〜2回くらいの頻度で、身の回りでとんでもない事が起きる。

すごい大きさの看板が落ちてくるなどは特に多い。泳いでる最中に足を攣り溺死寸前とかもあったな。いつも運よく助かっているが、普通は死にかけるなんて頻繁に起きるわけはないので、そのたびに上司に確認を取っていた。


ミカエルは、否定も肯定もせず、にこ、と笑うだけで何も言わなかった。


そして、羊は困り果てた。恐ろしすぎる…。本当に今日、あの人が俺を助けてくれて良かった。あのライダーの人が無事だったのも。

本来の上司の姿を知っていなければ、間違いなく死神側だろう。口には絶対出せないが。


「ミカエル様、せめて、他者だけは巻き込まないでください。誰かを巻き込むくらいなら、いつもみたいに建築物が空から降ってきて死ぬ方がずっと良いです…。仮に何かあっても、どれだけ痛くても天に召されるのは私だけなので」


羊は、自分が殺されかけてるにも関わらず、自分の心配ではなく他人の心配をした。その何ともおかしなお願いに、ミカエルは大笑いする。


「さすがだね、その自己犠牲精神に感服するよ。普通は”殺しに来ないでください”ってお願いするところなのに他人を心配するなんて」


お前は本当に可愛いね、とミカエルが羊の顎をぐっと掴んだ。

顎、というよりかは片手で顔をホールドするように両頬ごと掴まれ、目の前に月のような金色の瞳が目の前に広がる。羊は驚いて、瞬きを数回繰り返した。


「僕はね、お前が人間界で過ごすことで、その美しい心が汚されないか凄く不安なんだ。欲深い生き物だらけの世界で、お前が傷つかないか…。どこに蛇がいてもおかしくない」


ミカエルは心の底から、羊を心配しているようだった。輝く月がゆらゆらと揺らぎ、羊は胸が少し痛くなる。

蛇、というのはアダムとイブを唆したように、人間たちに害を与える悪魔全般のことを指していた。


「…人間界で過ごすのは2度目ですよ。」

「1度目は12歳の頃に終わってるだろ」

「・・・。」


それを言われたら何も言えなくなる。

以前羊が人間だったころは12歳で人生の幕を閉じてしまっていた。流行り病だった。短命だった事もあり、だからこそ、もう一度人間として生きたいと願ったのでこうしている。


思い返せば正真正銘恋をしたことが無いんだな俺は。


「全て悪い人で溢れてるわけではないですよ、少なくとも私の周りには親切な方しかいません。今の時代は平和そのものですからね。」


そう言いながら彼は、ミカエルを安心させようと、羊の顔を掴んでいる相手の手にそっと自らの両手を重ねた。

今日だってそうだ、見ず知らずの青年に命を助けてもらった。そのうえ傘まで貸してもらってしまった。親切な人だっている。

ミカエルは眉を寄せ納得いかないような表情をしていた。昔から彼は人間をあまり信用していない。

ミカエルは子供のように、羊の手の甲に顔を寄せた。相手の頬が自身の右手の甲にぴったりとくっつき、その距離感に畏れ多い気持ちになる。お互いの顔の距離は、二つの手のひら越しにあった。


どっ…どうしたんだろう、ミカエル様。
今日はやたら俺の事を心配してくるな…。


いつもと違う雰囲気の上司に、心拍数がドッドッと早くなるのを感じていると、相手が口を開いた。


「なんか、今日のお前はいつもと違う匂いが混ざってる気がする。」

「えっ?」


匂い?


「懐かしい匂いがする…。」


ミカエルはそう呟きながら、羊の顔から手を外し、両腕をそのまま羊の首の後ろに回した。ミカエルの薄い身体が羊に密着する形となり、羊は大声で叫びたいような衝動に襲われる。

わ、わぁ〜っ!?…これは、夢?…いや、夢の中ではあるんだけど、何故こんなことに?
懐かしい匂いって、なんだろう。

羊は自らの手の位置をどこにおけばいいかわからず、宙に浮かせたまま万歳をしていた。
匂いに思い当たる節は特になかったものの、ふと寝る前にキャンドルを焚いたのを思い出し、それを口にする。


「あ、今日、職場の先輩にアロマキャンドルを頂いたんです。それですかね?ミモザとカルダモン、サンダルウッドとかが上手く調合されているものだったのですが…」

「ふーん…。」


相手の反応的に、その匂いではなかったようだった。どうしても思い出せる気がしなかったらしく、ミカエルはしばらくして羊を解放する。


「思い出せない。」

「…ミカエル様でもそんなことあるんですね…」


まだ顔を染め万歳をしたまま、そう呟く羊。
羊の知る限り、ミカエルはその頭の中が図書館で出来ているかのように、記憶の中から的確に答えを導く人物だった。

懐かしい、ってなると、相当前の記憶なのかな?

ミカエルはまだ意識が記憶の図書館の中にあるようだったが、羊の顔色を見て思わず笑った。


「顔真っ赤にしすぎでしょ。」




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bkm