06
最終的に傘をさしていたとは言えびしょ濡れだった羊は、そのあとのバイトは休んでいいよと言われたが、ドライヤーで髪と服を乾かしてそのまま仕事をつづけた。
こんなことで休む程、羊は自分に甘くない。
あの美青年は『黎(レイ)』くんというらしく、電話番号の右下にそう書いてあった。
名前まで格好いいな、と手の甲を見ながら感心する。
電話番号は、手の甲から消えてしまう前に携帯に連絡先を登録した。
あの、手の感触…。
羊は仕事をしている最中にもしきりに右手を擦ったり、握ったり開いたりを繰り返していた。
何故か、あの手の冷たさと、肌心地を忘れられない。
とにかく、羊にとっては全てが衝撃的だったのだ。
この世界で、人に命を助けられるのも、美しすぎる容姿を間近で見たのも、ナンパと勘違いされてしまったのも。
しきりに右側がぞわぞわする気がして、必死にその感覚を忘れるように仕事に集中しようと試みる。一方で、店内にいた他のスタッフたちは、明らかに様子が変になっている羊を見て何事かと考えていた。
端から見ても、羊はしきりに右手を気にしたり、ずっとそわそわしている。
気になったスタッフの一人がこっそりと羊の右手を覗いた結果、うっすら書いてある電話番号を発見してしまい、羊本人がいないところでスタッフたちは小声で大騒ぎしていた。
「ナンパ!?」
「そうなんじゃないかな、電話番号っぽかったよ!さっき配達してる最中にされたんじゃない?」
「しかも出てった時傘持ってなかったのに、戻ってきた時には傘持ってたもんね…!渡されたのかな…。」
「羊くんレベルだったら逆ナンなんて慣れてるだろうに、あんなそわそわするなんて相当美人だったってこと?」
「羊くんを射止められる女って一体どんなバケモンよ…」
「え、てかさ、羊くんて彼女いるの今」
「「「・・・。」」」
佐沼洋は高嶺の花すぎて、こういった恋愛トークはスタッフから一切されたことがなかった。
そのためスタッフの誰も、「彼女いるの?」なんてことは聞けたことがなく、そのことを知ってる人もいない。勿論、誰も羊の彼女になれるなんて思ってはいないが、彼女はいないで欲しいと全員が願っている。
「あ…ねえ、羊くん、全然仕事とは関係ないんだけど、良い?」
このスタッフメンバーの中でボスでもある店長が羊に声を掛けに行った。
他の女性スタッフは(店長、いったー!)と心の中で叫ぶ。みんな知らん顔しているが、全神経が二人の会話内容にいっていた。
「はい!もちろんです。どうしました?」
「あっ、のさぁ…さっき他スタッフとも世間話がてら恋バナしてたんだけど、そういえば羊くんて彼女いるのかなぁ〜って思って…。」
突拍子の無い質問に、羊はきょとんとした表情を浮かべた。
店長は「あっ、いや、本当にプライベートな話だから答えたくなかったらいいんだけど!」と早口で補足する。
その質問に、羊はふと、ここ20年間のことを思い返す。
彼女…。考えてみたら、俺って今までそういった恋愛思考に陥ったことなかったなぁ…。
思いを告げられる事はありがたいことに何回かあったけれど、いつも断っていた。
俺と付き合っても、楽しさを提供できるとは思えないし…。
それに、彼女が欲しいって思ったことがなかった。
「いないです、思い返してみたら一人もいたことないんですよね…。この歳になっていないなんて変な話ですよね。」
その言葉に、この場にいた全員が驚きと歓喜を胸に心の中でガッツポーズをとっていた。
全員がこっそり聞き耳を立ててることなんて露知らずの羊は、恥ずかしそうな笑みを店長に浮かべる。店長は長い髪を振り乱しながら全力で首を横に振った。
「全然変じゃないよ!いるいるそんな子たくさんいる!女の子に誠実に接してる証拠だよね!」
「いえ、そんな…。俺自身そんな面白い人間じゃないので、相手に申し訳ないんです…。」
羊はわざと自身を過小評価してるわけではなく、自分よりも圧倒的に美しい方々を天界で嫌というほど見てきたから本心でそう言っていた。
特に生前はミカエルという美の化身が毎日側にいたのだから、自分なんてちょっと面の良い一般レベルだと思い込んでいる。
それでも人々が自分に好意を寄せてくれるのは、自身が元天使だから何かしらの影響を与えてしまっているのだと自己完結していた。
店長は、羊の謙虚すぎる態度に拝む一歩手前だった。どう育ったらこんな良い子になるのかと、心の底から思う。それは他のスタッフも同じだった。
一方で羊は悩んでいた。
一般的に考えて、20歳にもなって彼女がいたことがないのは、このご時世少し珍しいのではないかと。もしかして俺に足りないのはそう言ったプライベートな部分での努力かな?
天界にいたときは恋愛なんて勿論不要だったが、今が人間となると話は別だ。
人間の一生の中で、最愛の人を見つけ子孫を残すというのも重要な役目だし…。
とは言いつつも、ちょっとそこらへんはまだ全然考えられないな、想像が出来ない…。
もう少し恋愛の方面でも努力する必要があるのかも!、と自身に足りない部分の気付きを得た羊だった。
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bkm