09
お洒落な個人経営のカフェにつれてかれた羊は、促されるまま黎の対面側に座った。
黎は、お店に連れて行くまで羊の背中(もはや腰)にずっと手を添えたままで、羊は席についてからも背中に柔らかなしびれが残っている。
おまけに、黎から香っていた僅かな甘い匂いも気を逸らすのが大変だった。
彼は、距離が近い人なのかもしれない。
「何がいい?」
メニューを差し出され、トントンと黎の指が優しくドリンク欄を促す。
チラリと黎を見上げた羊は、申し訳なさから眉を下げた。
「ここも払わせてください。…ホットミルクティーで。」
相手はわかったのかわかってないのか、僅かに笑みを浮かべるだけで店員を呼んだ。
ホットコーヒーとホットミルクティー。
どちらが子供かわからない注文内容だ。
「敬語。」
「え?」
「やめてくれたら嬉しい。俺だけ敬語外してるの気が引けるから。…歳、近いよね?」
突然の提案。
羊は、少し戸惑いながら「近いはずですけど…」と答える。
未だ敬語を使い続ける羊に、黎は目を逸らしながら、やや冷ややかな声色で呟いた。
「あなたが敬語を続けるままなら、ここは全部俺が出すから」
その言葉に羊は、ギョッとする。
もはや、有無を言わせない提案だった。
「・・・わかった。黎くん、って呼んでも?」
羊の呼びかけに、黎はにこ、と笑みを浮かべた。
絵画のように美しい笑みに羊は顔が熱くなる感覚を覚える。…なんなんだ、これは。
「あなたの名前って珍しいよね。ひつじって書いてヨウって呼ぶの」
「…そうだね、よく言われる。」
クリスチャンの親がつけた名前。キリスト教信者からしてみると、聖書に関連する言葉や物を名前に使うのは珍しい事ではないが、この名前は確かに珍しい。
自身は気に入っている。神様への生贄そのものであるが、実際そうであっても構わないと思ってる。神様に尽くしたいのだから。
すると、注文していた飲み物が手元にきた。
お互いそれに口をつけたタイミングで、次は羊が口を開いた。
「今何年生?」
大人びた雰囲気からいうと、大学生といってもおかしくないが、制服が高校生であることを物語っている。3年生とかかな?もしそうなら、受験の時期に申し訳なくなる。
「2年生。最近この高校にやってきたんだけど、結構退屈。」
その言葉に首を傾げる羊。
…最近こちらに越してきたんだろうか。
「前はどこにいたの?」
「・・・んー、結構遠いところ。」
何故か濁された。
羊はちらりと黎を見るが、黎は静かにコーヒーを飲んでいる。
…まあ、知らない人にこたえる義理なんてないしね。
結構遠い、となると海外とかだろうか。
もしかしたら親は凄い人なのかもしれない。あの私立高校に転入できるのだから。
「まだ友達がいないから、こうやって歳の近い人と話せて嬉しい。」
黎のその言葉に、何故か羊は照れくさくなった。
昨日が初対面で、お互い何も知らないし、俺は何も大したことを話していない。
おまけに、こんな恰好いい高校生、周りがほっとくわけがないというのに。
「…黎君なら、だれとでも友達になれるでしょ」
「そうでもないよ。今のところあなたくらい」
「・・・。」
ついに、羊はなにも言えなくなってしまった。
なんだろう、この子のこの人たらし具合。今の高校生ってこういう感じなのかな…?知らなかった。
少し動揺をしてしまったせいか、その拍子にソーサーからスプーンが落ちてしまった。
カターン、と音を立てて床に転がるスプーン。
それを羊が拾って机の上に置くと、黎が羊の胸元を指さした。
「お洒落なネックレスつけてるね」
「え?あぁ…。」
さっき屈んだタイミングで、服の中から出てきてしまっていたらしい華奢なロザリオ。
シルバーで出来てるそれは、いつも羊の胸の中に隠されている。
「俺の御守りなんだ。家がクリスチャン家系だから。」
「ふーん…。だから名前も”羊”なんだ。」
羊はそっと胸の中にネックレスをしまいながら、黎の言葉に頷く。
ふと、よく羊=クリスチャンと結びつけられたなと感心するが、黎がキリスト教徒かといわれるとそうではなそうな気がする。これはあくまで、羊の勘だが。
「こんな可愛い信徒、神様に食べられちゃわないか心配。」
「…神様はそんなことしないよ。見守ってくれる存在なんだから」
黎の冗談に、羊は困ったように笑った。
神様は俺たちを守って、救ってくれる存在、それは間違いない。
偉大な天使には殺されかけているが。
羊が色々と複雑な気持ちになっていると、黎は瞳を僅かに緩めながら首を傾げた。
「どうしてわかるの?」
その質問に羊は「え?」と聞き返す。
黎は笑みを浮かべいるが、何となく雰囲気は冷たい。
どうしてって…。
そんなの、元天使なのでわかります、とも言えずに頭の中で考えを巡らす。
とはいえ、羊本人は神様に会ったことは無い。
ただ、実際そういう存在なのだから、疑ったことなんてなかった。
「ん〜…。そう教わったからなぁ。俺もそれが正しいと思ってるし、そう信じてるよ」
無難にそう答えることにした羊は誤魔化すようにしてカップに口をつける。
自分でもなんて曖昧なんだ、と思うけど、相手も腑に落ちていないようだった。
「…そんな素晴らしい存在なの、それは。」
黎がそう言って、カップの取っ手に指を掛けた時だった。
パキンッと嫌な音がして、次いでガシャンッ!!と大きな音が店内に響き渡る。
羊はその大きな音に驚いて、目を見開くと、黎の持っていたカップが何故か割れていた。
突然のそれに、羊は咄嗟に大きな声が出る。
「大丈夫!?」
割れたカップは黎の手元に転がっており、そこからコーヒーがあふれ出てテーブルクロスを染めている。どうやら取っ手部分が割れたようで、黎はその様子を静かに眺めていた。
「お客様、大丈夫ですか?」
羊の大きな声とガラスの割れた音を聞いて店員が大慌てでやってきた。
羊も立ち上がり黎が汚していないか確認する。
「大丈夫、コーヒーも少ししか入ってないから汚れてないよ」
黎は羊を安心させるように、笑みを浮かべた。
店員にも「カップを割ってしまってすみません」と謝っている。
実際、コーヒーは僅かだったため、テーブル上に零れただけで済んでいた。
見る限り、制服などは汚れていないようでホッとする。
店員はカップの不具合に謝罪を述べ新しいのを持ってこようとしたが、黎はそれを断ってこの慌ただしさがどうにか収束した。
「びっくりさせてごめんね」
ようやく落ち着いたところで、黎は羊に謝罪した。羊はそれに首を横に振って「気にしないで」と答える。
終始冷静な態度を取っていた黎に羊は不思議な気持ちになりながら黎に声をかけた。
「指とか、本当に怪我してない…?不運だったね」
取っ手部分が割れるなんて、初めて見た。
羊は黎の手元に視線を寄せるが、隠れていてうまく見えない。
「大丈夫だよ。」
黎はそれにこたえるようにして、手のひらを見せてくれた。
が、その手を見て羊はギョッとする。
血!!
血でてるよ!
「ちょ、ちょっと、黎くん、人差し指…!」
「ああ、ちょっと切っただけ。」
「何言ってるの!ほっといたらだめだよ…!」
さっき店内で大きな声を出してしまったため、なるべく小声で騒ぐ羊。
羊は慌てて鞄の中から絆創膏を取り出し、黎の手をとった。
ひんやりした手に自分の手を絡め、そっと相手の人差し指に絆創膏を巻いていく。
それにしてもなんでいつもこんなに手が冷たいんだ彼は。
俺の手が温かすぎるのかな?
指先はぱっくりと切れており、そこから血が滲んでいて普通に痛そうだった。
なんでこれを大丈夫なんて言ったのかな…。
「家に帰ったらちゃんと消毒とかしたほうがいいよ、ごめんね消毒液持ってなくて…。」
「…ありがとう」
黎は少し驚いた様子で、指にまかれた絆創膏を眺めていた。
まるで初めて手当をしてもらったかのような反応に、羊は瞬きをする。
…男が絆創膏持ってるの、そんなに意外だったのかな。
「ごめん、いつもこのくらいの傷放置してたから、ちょっと不思議な気持ちになっちゃった」
羊の視線に気づいた黎がそう補足した。
羊は血とか傷とかがとても苦手な人間なため、少しの傷でもすぐに手当てをしていたが黎は違ったらしい。
「俺不思議とカップとかよく割れるんだよね。このくらい慣れてる」
黎は軽い口調でそんなことを言ってのけるが、羊はその言葉が信じられなかった。
カップはそんな簡単に突然割れないよ黎くん…。
黎の指先に視線を送る。
絆創膏がじんわりと赤色に滲んでおり、その傷が痛々しくなった羊は、無意識のうちに胸の中のロザリオをギュッと握った。
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続きます。
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bkm