キスがしてみたいのだと、彼は言った。
そして他人の舌の温度を知りたいのだとも言った彼は、僕にからかうような表情やはにかむような瞳を一瞬でも向けることはない。
あんなにも挙動不審で、目を合わせることもままならなかった彼だというのに、その目は瞬きを忘れてしまったかのように真っすぐに僕を見つめ続けていた。
揺らぐことも逸れてしまうこともない。
(これは、なんという進歩、大躍進、)
対人訓練の賜物なのだろうと手放しで喜びたい気持ちになったが、それも束の間。
彼の要求、いや、欲求は、この状況や雰囲気からして確実に自分に向けられているのだとあまりに分かりやすく伝えられていて、
逆にこちらが以前の彼のようにそわそわと視線を彷徨わせてしまいそうになる。

「し、静河くん」

「はい」

「キス、するのか?」

「‥する、と言うよりしたいです」

「き、キスを‥?」

「はい。キスが、したいです」

淡々と、おうむ返しをするように言う彼は、少し前まで引きこもりで対人恐怖症気味だったなどということが嘘のように思えるほどひどくまともで、世間で言う普通という括りに入る人間たちとまるで同じように見えた。
けれど、発言が発言なだけに戸惑いや困惑がひょっこりと顔を出してどうしていいか分からなくなる。
なんでもないことを言っているような顔で、声音で、空気で、さらりと言われたせいか「じゃあしてみようか」と何も考えずに一瞬言い掛けてしまったなんて、一体誰に言えばいい?
あんまりにも彼がじっと僕を見つめて来るから、なんだか目の前がぐらぐらしてきた。

「山久さん、」

「え、あ、うん。いや、ええと、静河くん?」

「はい」

「な、なんで急にキスなんだ?」

「急にじゃないです」

「は?急にじゃないって‥いや、そうじゃなくて。うん、というより、なんで相手が僕なんだ?そんなに血迷わなくても、ちょっと待ってくれれば誰か女の子を紹介するし‥」

「無理です、山久さん」

「む、無理?なんで無理なんだよ、静河くん」

携帯電話を取り出して、電話帳から誰か良い子は居ないかと探しかけたところにキッパリと言われた僕は、それはもう大いに戸惑った。
一体何が無理だと言うのだろうか?
彼は未だ僕を見つめたままだし、僕は彼を困惑気味に見つめ返している。
(僕しかキスを求められるような相手が居ないから、こんなことを言い出したんじゃないのか?)
そう思い当たっての提案だったというのに、これではどうしたらいいのか分からなくなってしまう。
絡まる彼の眼差しはひどく真剣だ。

「山久さんじゃないと、したくないんです」

「、」

何か言葉を返そうとしたのに、意表を突かれ過ぎた僕の声は喉の辺りで詰まって消えた。
まるで表情の変わらない彼からは、そこにどんな感情を潜ませているのかが窺えない。
ひたと僕を見据える瞳は落ち着いた黒で、眼鏡越しのその中にはなんとも言えない顔をした僕が映っていた。

「‥あー‥その‥君は、僕と、キスがしたいのか?」

「はい」

「誰でもいいわけじゃなく?」

「はい」

「僕と、キスがしたい、と」

「はい」

迷うことなく、彼が短く答える。
頷きもしないのが彼らしいと考えながら、僕はじわじわと体が熱くなるのを感じていた。
ああ、妙な汗まで出てきている。
普通ならば青ざめるなりするのが正常な反応だろうに、ここまで当前のように真面目な顔で言われてしまうと、恥ずかしいようなじたばたしたくなるような、猛烈な照れに襲われるのは何故なんだ。

「‥‥えーと‥静河くん、は‥‥あー‥‥ファーストキスは‥まだ、なのかな?」

「今までキスをしたことがないので、そうなりますね」

「あ、ああ‥うん、そうか、ええと、そうだね、ファーストキス、か‥うん‥」

聞くつもりもなかったことをモゴモゴと口にしながら、僕は視線を徐々に床へと落としていく。
すると、ふっと空気の揺れる気配がして、それにつられて再び顔を上げた僕はポカンと固まってしまった。

「‥‥‥‥」

「静、河、くん?」

「はい、」

声を掛けられ、返事をした途端に彼のその微々たる変化は掻き消えてしまう。
しかし、僕は自分が目にしたものに驚きを隠せぬまま、呆然と彼の顔を見ながらパチパチと目を瞬かせていた。
だって、笑っていたのだ。
あの静河流が、笑っていた。
無表情で、何を考えているのかまるで分からないような彼が、ほんの微かだったけれども、相好を崩して小さく微笑んでいたのである。
(なんて奇跡だ、)
思いながらも、僕の顔にはそして急速に熱が集まっていく。

「‥‥静河くん、あー‥今のはちょっと、反則だと思うよ」

その意味が理解出来なかったのか、彼は数度瞬くと「反則?」とだけ短く呟いた。
表情は相変わらず無いに等しかったものの、どこか怪訝そうにも見える気がして、僕は少しだけおかしくなる。

「ああ、いや、分からないならそれでいいんだけどさ」

「‥‥はい、」

一拍、腑に落ちないとでも言いたげに間を置いて彼は返事をした。
けれどきっと頭の中では、それでいいなどとは思っていないに違いない。
なんとなくそれが分かった僕は苦笑する。

「まあ、うん‥とにかくこの件は、一旦保留ってことでもいいかな?ちょっと、考えさせて欲しいんだ」

「はい」

大人の体面を保つため、余裕たっぷりに僕が言うと彼は言葉だけで頷いた。
男と男でマズイだとか、立場上マズイだとか、頭を掠めていく問題はいろいろとある。
けれど不思議と嫌悪感を感じていない自分が居るのは驚くべきことだった。
僕とキスがしたいと、僕とするのでなければ無理だと言ってくれた彼の言葉は嬉しかったのだ。
だからか、少しばかり不安そうな二つの瞳を見ただけで、やっぱり今すぐにでもいいよ、なんて僕は言いたくなってしまっているのだけれど、はっとしてすぐに言葉を飲み込む。
唐突に沸いた感情に任せて、この全てを受けとめてしまうのはなんだちょっと安っぽ過ぎる気がしたのだ。
(とか言っちゃって、そんなストッパーも、結局はただの打算にしかすぎないんじゃないかなぁ?)
(あははは、なんて、ね、)
そんなことを考えながら、自分という人間の思考回路の有体に呆れてしまいたくなる。
けれど、どうにか溜め息だけで止めておく。
(まあ一先ず彼の希望は、前向きな方向で検討してみることにしよう)
良いのか悪いのか非常に複雑な心境だったけれど、まだ少しばかり熱い、嫌な大人の脳内でひっそりと密かに考えていた僕は、彼によく見えるように口元を緩めると、少しだけ笑って目を細めた。
























僕はずるい、君は幼い






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