少し甘めの、ヘアシャンプーの匂い。それに紛れて洗い立ての洗濯物に似た柔らかい匂いと、実習で使われている嗅ぎ慣れた胡麻油の凡庸な薫り。少し前を歩いている華奢な背中を見るまでもなく、おれはそれが誰であるかを臭いだけでイメージすることができる。けれど、声をかけるような用があるわけでもない。そう思って、時間を潰すために歩いた。昼休みを持て余して調理室へ向かうおれの道程を、彼女は知っているように先回りして一人歩いていく。この様じゃ、端から見ればおれが彼女の後をついて行っているように見えるだろう。ぼんやりとそんなことを考えながら目的地に辿り着くと、先にドアを開けて室内に入っていた彼女は案の定、そこに居た。大きな中華鍋を抱えて、誰も居ないことを確認しているのかキョロキョロと周りを見回している。しかし、そうしている内にやっと気配を感じたのか、後ろを振り向いた彼女は脅かされたような顔をすると「あ、」と声を漏らして石のように固まってしまった。まるで怪物にでも出くわしたかのような反応だ。

「‥‥‥‥‥‥練習?」

なんとなく戸口にもたれかかりながら静かに聞くと、それで我に返ったらしい彼女は、固まっていた顔をくしゃくしゃと歪めて、何故だか泣き出しそうな表情で「ごめんなさい」と呟いた。そうして、もうこれ以上目を合わせているのは無理だと言わんばかりに顔を俯かせてしまう。別に、責めたわけじゃあないだろう。そう頭で思ったけれど、口にするのが面倒で、おれは微かに片眉を上げるだけに留めた。
(声なんか掛けるんじゃなかったな)
無視してもよかったはずなのに、何の考えもなく口をついて出た言葉に、内心では苦々しい舌打ちが漏れた。彼女は俯いたまま顔を上げない。それどころか、彼女の半分もあるような中華鍋で自分を隠そうとすらしているように見える。確かに、香辛料絡みで一部の人間に怯えたような素振りを見せられることはまま在った。けれど彼女とは全くその方面でも日常的にも関わりなどない。それにそのことを抜きにしても、ここまであからさまに逃げ腰になられることは今までに一度もなかった。

「‥なに?その態度」
「っ、え‥?」

奇妙な苛立ちに駆られて呟くと、彼女は弾かれたように顔を上げて、そこに困惑の色を滲ませていた。泣きそうな目元は益々細められて、うっすらと赤みを帯びている。だけど一体、おれがお前に何をした?他人に興味があるわけではないとはいえ、こうも拒否反応に近いものを見せられるとさすがに気分が悪かった。踵を返して、調理室を出る。

「あ、たちばな、くん、」

後を追うようにしてひどくか細く、そして短く、彼女の声が背中に触れた。けれど、耳障りだ。苛々する。知らず眉間に皺を寄せて、足早に歩を進める。まったくもって意義のない、無駄な時間を過ごしてしまった。そう考えながらも、振り向くことなくひたと前を見据えて歩き続けるおれの脳裏に浮かぶのは、奇妙にも気に食わない彼女の困惑を張りつかせた顔と、怯えで震える声ばかりだった。
















お気に召さないひとつの呼吸



title:舌




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