(あ、痛い)

ふと気づいた目蓋の裏側からもたらされる違和感に、おれは数度まばたいてみた。
何かが目にはいったのだろうかと、痒みを伴うようないたみに耐えかねて手の甲を目蓋におしつけごしごしと薄い皮膚をこする。

(よりによって、見える方の目だなんてさいあくだ)

直接ではないにしろ、皮膚越しに眼球へ強く与えられる力に、じいんといたみが広がりはじめる。
すこしばかり涙がにじんできたなあ、などと思いながらも、閉じた目をこする手は止まらない。ぎゅう、ぎり、ぎゅう、ぎゅう。こすりつける力は弱まらない。こんなことをしたって、なにも拭い去ることど出来やしないと分かっているのに。

「ああ、いったいなにをやってるんだい君は。バカか、それとも頭の悪いのふりかい?」

俯きかけていた顔を上げて、いつの間に、そう聞く前におぼろげな目の前でも鮮やかに踊り立つ緑がいつものように笑っていた(かどうかは、正直よくは分からなかったけど)。
思い出す感覚と空気と匂い、気配、は、意識下の中に浮遊している心地が足の裏に集まってきて、ああここは一度きたことがあるあの不可思議な場所だと思い出す。

「‥梵、天?」
「なんだいその顔は。もしかして、また無意識に呼んだとでもゆうんじゃないだろうな」
「俺、呼んでないけど‥」
「いや、呼ばれた」

白っぽく濁る片目の視界からは上手く表情を見つけられない。
声はめずらしく平坦なものだったから、はっきりしないそれが無性にもどかしく思えた。

「うん?なんだ、目が少し赤いんじゃないのか」
「なんか、さっきからいたくて」
「‥まさか、それで呼んだなんてゆうんじゃないだろうね」
「いや、だから俺、呼んでないけど」
「‥君は、頭が悪いのかそうじゃないのか分からないね」

ため息まじりの言葉のあとに、瞳を満たしていた光の明るさが少なくなって、灰色の画面に切り替わる。
それから触れられたものが指先だったのだと気づくのはちょっとしてから。
ひや、としていたからすぐには分からなかったけれど、それは確かに記憶の中で知る、彼の指先の感触だった。
戸惑うよりもなんだかとても、どこか、足りないようなものが埋まった気がして。

「塵でも入ったんだろう」
「やっぱり、そうなのかな」
「けど、何も見当たらないよ」
「本当に何も?」
「まあ、正確に言えば、目に見える範囲内では何も見当たらないように思える、だけどね」

言葉を聞きながら生理的な涙を滲ませてまばたくと、それでもやはり未だそこに居座っているらしい何かが眼球を刺激して涙がこぼれた。

「また泣き虫が出たか」
「‥そんなんじゃないよ」

むっとしたように答えると彼は「わかってるよ」と言って、目薬を取ってくるからとおれ頭をくしゃりと撫でた。
その温もりに、体がふるえる。
けれど、すぐさま気配を消したらしい彼は、きっとそれに気付いてはいないだろう。
そのことにほっと安堵しながら、おれは乾いた唾を飲み込んだ。
悲しくて涙が滲むわけではないのに、僅かに軋む胸のせいで、また頬を伝った涙が足元をポタリと静かに濡らしていく。

(また、ひとりだ、)

取り残された薄闇の狭間で見舞われた寂寥感は、息を止めたくなるほどひどかった。
ここは、この世界は、あまりにも取りこぼしていくものが多すぎる。
絆も、記憶も、存在さえ、時たまこの場所では希薄で。曖昧で。

「‥梵天、」

そう、くちびるは無意識に呟く。
その声が自分のものか、身の内に記憶が宿る、今は亡き人のものであったのか。
漠然とした孤独の中で胸を押さえながら、上がり始める息に喉をひくつかせていたおれにはもう、何も分からなくなっていた。




息つぎ





title:深爪




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