「ねえ志摩くん。このリップクリームね、すごくあまくておいしいんだよ」
からっ風が吹き上がる、
さむいさむい冬の帰り道に体をふるわせながら歩いていると、そういえばといった調子で投げかけられたのは、おとなりからの楽しげな声だった。
顔を向ければ、
おんなのこが好きそうな薄いピンク色のスティックを持った朴さんがにっこりと微笑んでいる。
おれは不自然にならないよう慎重に、口元にゆるゆると笑みを浮かべた。
「へえ、そんなんあるやね。ぜんぜん知らんかったなぁ」
「うん。あのね、これ、実はちゃんと味もあるんだよ」
「味?」
「そう、わたしが持ってるのはバニラ味なんだけど、他にもイチゴとか、チョコレートに、あと、ミルフィーユなんかも」
思い出すように指折り数えて、朴さんのやわらかそうなくちびるが言葉を発するたび、ひかえめな白い息がふんわりと舞う。
(ああ、このくちびるはいただけない、)
「、イチゴは分かるけど、チョコレートにミルフィーユて‥」
言いながら、朴さんの肌が白いせいで、赤くなった頬や鼻に目がいって無性にさわりたくなってしまう。
だからおれはなんとなく居心地が悪くなって、メンソールとかならおれも使うから想像できるんやけどなあ、そんなことを呟きながら顔を前へと向きなおした。
色のついた、甘くておいしいものを乗せているらしいくちびるなんかを曝されても、おれはそれを直視しながら何事もないような体を装えるほど大人じゃない。
一瞬くらいにでもついついよからぬことを企んでしまいたくなるのは、どうにも仕方のないことなのではないだろうか、
「‥あ、そうだ!ねえ、志摩くん。このリップ、志摩くんも使ってみる?」
「、へ?」
なんて、おおっと、まさか、いやそんな。
おれのやましい考えが、朴さんに見透かされてしまったのではないだろうか、
そんな思いでおれがピシリと石のように固まると、朴さんはそれとは対照的に無邪気な明るい声で教えてくれた。
「志摩くんもリップクリーム、使う人なんでしょう?これね、甘くておいしいけど、保湿力もすごく高いんだ。よかったら私、今度このシリーズのリップ買ってくるよ」
にこにこ、そんな効果音をつけるに相応しい笑みが朴さんの顔に滲んでいる。
かっと燃えるように皮膚の下が急速に熱くなったかと思えば、その言葉の意味を理解した途端におれは残念なような、けれどもなんだかほっと安堵のため息を吐きたくなるような複雑な思いに駆られて頭を抱えたくなってしまった。
「‥えっと、志摩くん‥?」
喜ぶべきか、悲しむべきか。
そのどちらのリアクションも取れずに中途半端な表情を浮かべているだろうおれに、朴さんは不思議そうに首を傾げている。
「あー、えっと、いや、うん、せやね‥ほな今度、ぜひぜひそのリップ買ってきてもらおかなぁ?」
あわてて笑顔を作りあげ、取り繕うようにおれが言うと朴さんの顔にはやわやわと笑みが戻る。
ほっとため息を吐いたのもつかの間、その赤い頬にはますます赤みがさして、。
(うわ、なんやのこれ)
(往生しそう、)
本当に、なんなのだろうか、この生き物は。
今すぐ羽交い締めにして、わけのわからないことを叫びながら心行くまでぎゅうぎゅうと抱き潰してしまいたい、
なんだかもう、抱きしめたい。
しかし、そうは思えど、そんな大それたことができるはずもなく。
意気地のないおれは情けない笑顔を浮かべたまま、身体中を駆け巡っているこのどうしようもない衝動を必死に抑え込んで、朴さんに分からないようにうなだれる。
動揺は、脱力へ。
(ああ、)
無意識にぴくりと反応したおれの手は、彼女に届く前にゆらり、誤魔化すように揺れながら、今日も今日とて淋しくも虚しく、何もない宙を握り締めるばかり。
おいしいリップクリーム
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