喉が痛い、頭も痛い。身体はダルいし寒気がする。いつもより回転の遅い脳ミソで暫らく考えて、風邪だな、と起き抜けに冷静な自己診断を下したあたしは、ベッドから身体を起こすのも億劫で、そのまま天井を睨みつけていた。浅い微睡みに誘われて、意識が淡くゆらめいている。
まったく、ちょうど今日が休みだったから良かったものの、社会人たるものさっさと病院に行って治すものは治してしまわなければ。そう頭の片隅で思うのに反して、ずぶずぶと輪郭を崩すようにして思考と身体はアイスみたいに溶けていく。ような、少しばかり子供じみた錯覚。一人暮らしをしていると、こういった時に全てを自分でどうにかしなくてはいけなくなるのがどうにも大変なことだと身に染みて実感させられる。実家に居た頃はその存在を鬱陶しく感じたりもしていたけれど、今思えば、親の有り難みというものがよく分かる気がした。薬や着替えを用意して、お粥を作って、病院まで連れて行ってくれる道中は日頃の不摂生に文句を零すのも忘れない。もう随分とやっていないそんなやり取りを思い出すと、なんだか口元に笑みが滲んでしまう。懐かしい。そんなことを考えていると、ちくり、深い眠りに引き込まれながらもどこかハッキリとしている目の裏側が微かに痛んで気分は最悪だった。昨日は遅くまで仕事の資料に目を通していたから、少し疲れてしまっているのかもしれない。そう思い至ると、なんだか喉と頭に続いて静かに痛みが強くなってきたような気がするからなんだか本当に嫌になる。これで熱でも計って高い数値を叩き出せれば、あたしは目を回して今すぐにでも意識を手放してしまうかもしれない。考える頭のすぐ近くで、ブー、ブー。眠たくて、だけど眠れないあたしを知ってか知らずか、携帯が唐突に振動しはじめた。アラームをかけた覚えはない。誰だろうと顔をしかめて手を伸ばせば、うんざりするほど見慣れたその登録名に、あたしの顔は更に二割増しで歪んだことだろう。だって、こんな時にかけてこなくてもというそんなタイミングばかりを拾いあげて、この『山本武』という男は嫌がらせであるかのようにいつも連絡をよこすのだ。通話ボタンを押すか否か考えあぐねていると、それから少しして、携帯は振動を止めてしまった。珍しい。普段ならば長々とコールを残して山本は電話を切るものだから、まだ考える猶予があると思ったのに。あたしは小さくため息を漏らして、安穏と目を閉じようとした。

――ガチャリ、。

しかし、今度は玄関でドアの開く音がして、あたしは下がりかけた目蓋を急いで無理矢理抉じ開けた。

「おじゃましまーす………って、あれ?黒川…?」

玄関から続く短い廊下を抜けて、当たり前のように現れたのは今電話をかけてきたばかりの山本だった。と、いうより、この部屋にあたしの許可なく入れるのは山本だけなのだから、それ以外の人間だった日には恐ろしすぎる。犯罪だ。なので、合鍵でドアを開けて入ってきたのだろうことは想像するまでもないことだったけれど、それにしたってこの男はつくづくタイミングが悪すぎやしないかと思う。くたびれた黒いスーツを着て、手には真っ赤な薔薇まで持って、ミスマッチな組み合わせだ。敢えて空気を読まないにもほどがある。しかも後ろ手に何か隠しているような不自然な体勢で、いまいち状況が飲み込めていない能天気な顔を見ていたら、ああもう、なんだか腹が立ってきた。だって背中に隠しているものなんて、どうせケーキの箱に決まっているのだ。祝い事や何かイベントがある時には、いつだってこの二つをセットにして山本は私にプレゼントしなくてはいけないと思っている節がある。行動がワンパターンだから、用意に想像できてしまうのだ。けれど、だからこそ、あたしはふいにそのせいで思い出してしまって、後悔した。今日が、何の日だったのか。どうして山本がこんなものを用意して現れたのか。体調が悪いから今すぐ帰ってと言おうと思ったのに、そのことに気付いてしまうと、何も言葉が出なくなってしまう。

「なあ、黒川。もしかしなくても具合……悪い、よな?」
「…まあ、見ての通りだけど」

顔を曇らせながら聞く山本にあたしは努めて普段通りに答えを返した。正直なところ、化粧もしてないし、寝起きだから髪だって眩暈がしそうなくらいにボサボサのぐしゃぐしゃで、なんでこんな状態でアンタと話なんかしなきゃいけないのよ、なんてのがあたしの本音だったのだけれど、気まずい気分で顔を逸らすことくらいしか対処方法が見つからない。様子を伺うようにそろそろと近づいて来る山本にストップをかけたくても、言葉にする前に口の中で有耶無耶になってしまう。癪だけど、今回は山本ではなくあたしの方が悪かったのだ。最高に、最低なタイミング。らしくなく自分から言い出したことだから今更撤回も出来ないし、これはもう、何かを理由に逃げ回るのはいい加減に諦めろという暗示なのかもしれない。私は、布団の中で小さく唸った。

「…とりあえず、座ってて。ちょっと顔洗ってくるから、」
「黒川、そんなのいいから。ちゃんと寝とかないと駄目だろ」
「大丈夫だってば」
「ていうか、熱は?」
「計ってない」
「じゃあ、体温計取ってくる」
「…計ったら、余計に気分が滅入るからイヤ」
「だったら、すぐ風邪薬とか買って来て体休めてやんないと」
「平気だって。こんなのちょっと寝てたら治るから」
「こら、黒川」

むっと言うあたしに、山本は少しだけ怒ったような呆れた顔。だけどその顔がどこか困っているようにも見えてしまって、それがなんだかちょっぴり可愛いと思うし、癪だけれどやっぱり好きだな、と思ってしまう。だから――…いや、だからというのはおかしいかもしれないが、きっとこれはもう、仕方のないことなんだろうなと、あたしの中でよく分からない納得が出来てしまった。

「…ああ、そういえば、さ。もう、黒川じゃ変よね」
「、え。何が」
「うん?名前」
「あー…?え?」
「だから、名前。あたしもうすぐ黒川じゃなくなるんだし」
「ああ、まあ………………、………………………………、え?」
「…ふ、あはは、なに惚けた顔してんの?」

相変わらずズキズキ痛い頭を抱えて、固まる山本を横目にあたしは布団からのそり、やっと体を起こして少し笑った。鈍い山本でも、今のでさすがに理解したはずだろう。返事まであと二週間待って、その言葉通り、ちゃんと期日最終日である今日という日に、あたしからのこのご回答なのである。今までぐずぐず先延ばしにして、はぐらかして、のらりくらりと私が躱してきたものだから、きっと山本は今日もそのつもりでいて、だけどまあ、そうなった時の気まずい空気を誤魔化すために花束とケーキを買って来たのかもしれないけれど。ああ、もしも本当にそうならば、心底小気味の良いことだ。
笑いながら、私はノロノロと洗面所へ向かう。
まずは顔を洗って、歯を磨いて。それからせめて、着替えだけでも済ませて山本とちゃんと話すことにしよう。
そう考えている重いあたしの背中には、絞りだすように花、と呟いた山本の声がむず痒く染み込んでいった。
その、安っぽくて、だけどなんだかどうしようもなく幸せに思えてしまう、奇妙でお手軽な短い単語。ただ、自分の名前を山本が紡ぐだけのそれを呪文、なんて少しイタい表し方をするには少し年を重ね過ぎてしまったあたしは、笑う代わりに小さくため息を漏らした。夢見がちな子供でもあるまいし、そう自分を戒めるように内心で苦笑いして、顔を水で洗う。
けれど、タオルに手を伸ばそうとした瞬間、後ろからぎゅっと抱き締められて、私は思わず驚きに声がひっくり返ってしまいそうになった。

「っ、ちょっと、何すんのよ!」
「やばい、」
「は?」
「うれしい」
「…あー……」
「……なんか、泣きそう」
「…いや、まあ、うん。別に泣いてもいいんだけどさぁ、」
「うん?」
「…とりあえず、顔を拭かせてもらっていいかしら?」

げんなりした声で言いながら、頭痛は止まないし、抱きついてくる山本は重いし、ダルいのなんか益々ひどくなってきたような気がして疲労感は増すばかり。明日には風邪が悪化して、身体すら起こせないんじゃないかしら、なんて嫌な予感は気のせいにしておくことにする。

「………絶対、幸せにするから…」
「……あー…うん、アリガトウ。サンキュー。すっごく嬉しい。ねえ、だからまあ、なんていうかとりあえず……顔。いい加減に拭かせてもらえるかしら。ねえ、アナタ?」

ぎゅう、と抱き締めてくる腕の力を強くして、なんだか感極まっているらしい山本にあたしは半眼で言った。顔から水をポタポタと垂らして、間抜けな状態もいいところだ。
それでも、茶化すように言った『アナタ』が嬉しかったのか、山本の腕の力は弱まらない。
熱のせいで頭が沸いているにしては、少々投げやりかつ諦めが過ぎる気もしたし、体調が戻って冷静になって振り返れば己を詰りたくなる言動と行動であることに間違いは無いのだけれど、散々逃げ回り、まっすぐには触れないようにしてきたものをやっと抱き留めた私は、不思議と清々しい気分を味わっていた。

「……それにしても、幸せにするのはあたしだけ?」
「え?」
「あんたは?」
「おれ?」
「そうよ、」

言いながら、さらりと流しはしたけれど、幸せにするだなんて冗談じゃない。
結局抜け出せないままの腕の中からどうにか手を伸ばして、掴んだタオルで顔を拭ききつつわざとぞんざいな口調で聞いてやる。
すると山本は、大真面目な声で答えた。

「うーん、おれは……花と初めて会った時からもうずっと幸せだし、これからはもっと幸せになるから…それと同じくらい、花のこと幸せにしたいなとは思ってるけど」
「…あ、そ」

あたしは馬鹿か。聞くんじゃなかった。
風邪のせいで目眩がするのだか熱いんだか、さっぱり分からなくなりそうな心地で短く返すと、肩口で山本が微かに笑うのが分かった。

「…何よ」
「いや、幸せだなーと思って」
「へえ。良かったわね」
「他人行儀なのな」
「まあ、そりゃあね」
「じゃあ…早いとこ他人行儀じゃなくなるくらい、幸せにしなきゃだな」
「っ、きゃ、あ!?」

勢いよく抱き上げられて、ぐわんと傾いた視界に目を回していると、すぐにそっと気遣うように下ろされて、身体が柔らかな場所にぎしりと沈む。
ベッドの上へ寝かされたのだと理解するまでに暫く時間を要したけれど、ぼんやりピントを結んだ視線の先で山本は眉を下げて、けれど未だに見え隠れする子供っぽさからは遠い穏やかな笑みを浮かべながら、あたしの頭を柔らかく撫でた。

「でもまずは、その風邪治さねぇと。な?」
「………そう、ね」

いきなり抱き上げて、驚かされたことに文句を言ってやろうかと思ったのに、なんだか何も言えなくなってしまう。悔しい。
だけど、むずむずする。
嫌ではない。
むしろ、心地よかった。
昔からまるで何一つ変わっていないようなやり取りばかりなはずなのに、それでも、何もかも同じままではないのだ。
きっと、あたしはこれから何度もこんな感覚を味わうことになるのだろう。
スーツの上着を脱いで、腕を捲る山本が卵粥なら食べられるかと聞く声に、あたしは静かに頷いた。
熱に浮かされた今日という日のやり取りは、普段の自分ならばどうかしていたとしか思えなくもなかったけれど、台所とミスマッチな広い背中と、カチャン、カチャ、と鳴る食器の音、冷蔵庫がばたんと閉まって、ぱりり、ぱき、卵のパックに自分では無く、親い人が触れる音が微睡みを誘う。

「……ねえ、」
「うん?」
「……………………やっぱり、なんでもないわ」

言いかけた言葉を濁しても、山本は背中を向けたまま、声だけでそっか、と笑うだけだった。
口にしなくても、もしかしたらもう、伝わっているのかもしれない。
そう思うと何だか少し腹立たしい。
けれど、いつかその内にでも、言ってもいい気がする。
…いや、ちゃんと伝えたいのだ。
近くて遠い未来に。

(私も、同じくらいにしあわせだ、と)

そう
思わせてくれる、
しあわせなせいかつ。





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