自分が何にもなれないのだということは、小さな頃から分かっていた。それは自分だけではなく誰もが同じで、あたしはあたしという与えられた生を歩むしか道はない。他人に成り代わることなど不可能というだけのこと。どれだけ羨んだところで、どれだけ口汚く罵ったところで、あたしはあの憎たらしい女になれるはずもない。それにもしも何の奇跡か悲劇かはたまた喜劇か、それが叶ったとしたって、そうなった途端にあたしは未練がましい心持ちで皮肉な笑みを浮かべながら、何もかもを棄てようとしてしまうはずだ。

「‥おなかすいた、」
「ああ、では今からランチでも」
「んふふ、ありがとう骸ちゃん。でもあたし今日は1人がいいわ」
「‥そうですか、わかりました」

机と二人分のコーヒーカップ、滑らかなカーブを描く作り物じみたあたしの爪を挟んだ空間に、柔らかい声音で会話がするりと落ちていく。別に、強がりじゃない。嘘でもない。最初はそうだったことは否定しないけれど、何度も繰り返す内に諦めがついてしまった。情けなくて、認めたくはなくとも、もうこれは仕様のないことなのだと。物分かりの悪い馬鹿を演じているのすら面倒で、悪態さえ飲み込んでしまう。

「骸ちゃん、また連絡するわね」

にこり。体裁だけは保とうと意地になっていたのが幸いしてか、あたしは落ち着いた胸中で微笑みながら席を立つことができた。

「ええ、お待ちしています」

短い視線の交差、それを名残惜しいと思うことのない自分に安堵してあたしはバッグを肩に掛ける。クロームによろしく、なんて少しばかり嫌みったらしい台詞も、今ならば口にしたところで虚しい気分にはならないのだろうか。馬鹿馬鹿しい。ふざけた考えを一蹴して、あたしは履き慣れたお気に入りのヒールをカツリと優雅に鳴らしながら歩き出した。慌ただしくも頭の中ではランチのメニューリストがずらりと並んで、計らずもお腹が鳴ってしまいそうになる。

「ああ、待ってくださいM・M。忘れ物ですよ、」

カツン、呼び止められてあたしは忘れ物なんてあったかしらと何の疑いもなくゆっくりと振り向いた。予想外にすぐ後ろに立っていた彼はあたしに恭しく真っ白な封筒を差し出してくる。それを芝居じみていると思いながら受け取って、見覚えのない封筒を片手に、あたしは訝しげな顔になった。

「‥‥ねえ骸ちゃん。これなぁに?」
「開けてみてください」
「‥イヤよ。サプライズは好きじゃないわ」
「なら、明日の十時に僕と二人で出かける約束を」
「ねえ。イヤって言ったら?」
「僕が納得できる理由を聞き出すまでは、帰せませんね」

悪怯れなくそう言ってのける唇は、相変わらずの厭らしい笑みを乗せてあたしに有無を言わせようとはしてくれない。卑怯者。冗談ではなく本当にあたしを帰すつもりがないことなど、色の違う二つの異質な瞳をじっと見つめるまでもなく分かってしまう。どうせ、今日は最初からそのような魂胆だったのだろう。あたしは今すぐにでも静かに一人でこの空腹を満たしたかったのに、それを許そうとはしない彼の完璧な微笑みは、先ほど二人で向かい合っていた机へ戻るよう暗に促していた。

「‥骸ちゃん、あたしビジネスライクな付き合いが好きよ」
「はい、もちろん知っています」
「これって、デートのお誘いかしら?」
「否定はしません」
「そう。こんなご機嫌取りなんかしなくてもいいのに」
「ふふ、ただの我が儘ですよ。僕のね」
「‥で、どんなデートプランなのかしら」
「そうですね、まずは君に似合う洋服を選んで、それからオペラの後にディナーを」
「まあ。とってもステキだこと」
「ふふ、眠くなりそうでしょう?」
「‥そうね。でも、そういうのは嫌いじゃないわ」

淡々と、互いに抑揚なく答える間にも彼の浮かべる柔らかな微笑は微塵も崩れていくことなどなかった。それは嫌味なほどの甘さを添えて、あたしの瞳へと向けられている。口元に笑みを作ることも出来ぬまま、あたしは手に持つ染み一つない薄い封筒の、指先にしっとりと馴染む滑らかな感触を暗鬱な気分で感じ取っていた。きっと、この中には先程彼が言っていたオペラのチケットが当たり前のような顔をして入っているのだろう。考えながら、いっそそれが小切手で、最後の報酬を手渡すための最低なジョークだったなら、と、あたしはきつくアイラインを引き込んだ目を細めた。強がりじゃない。嘘でもない。だけど、どうしたってあたしはそれを望んでいるわけじゃない。(ああ、募る空腹、)

「‥ねえ、骸ちゃん。あたしおなかがすいてるの」

どこか刺々しく響いた自分の声に顔を歪めたくなるのを堪えて、無表情に努めながらあたしは言う。

「では、明日の十時に迎えに上がります」

けれどそれを笑うかのように、口の端を持ち上げる整った顔は、あたしの手を取ると紳士的に口付けて、その笑みをゆうるり、深くするのだった。


















偽りだけで   

   着飾って、





title:フライパンと包丁




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