この部屋に炊飯器はない。だから家を出る前に早炊きボタンを押して出来上がった白米をタッパーに詰めて来た。まだ温かいが、獄寺が出てきてからレンジで温め直した方がいいだろう。手際よくグリルに放り込んでおいた鰺は、そろそろいい具合に焼けてきているはずだ。味噌汁はすでにお椀に入れる準備は万端である。
それだから後は獄寺が出てくるのを待つだけなのだが、何をしているのか風呂場では獄寺の「おい」とか「こら動くな」とか、怒ったような声がしてはがたがた、騒がしい音の次に子猫の泣き声といったふうな調子で、まだすこし時間が掛かりそうな様子だった。苦笑い混じりにハルは、買ってきたトマトの缶を机の上で転がしながら昼と夜のご飯はどうしようかと考える。獄寺はイタリア育ちだが、意外にも日本食で特に嫌いなものがない。十代目が食べてお育ちになった日本食をむしろ嫌えるはずがないと、嬉々として語っていたのを思い浮べるとつい口元が綻んでしまう。
思えば、自分と接するときとはまるで違うその態度の差に嫉妬することもあったけれど、その差が実のところ獄寺の真意ではないことに気付いた時、ハルは獄寺のそんなところをむしろ好ましいと思うようになっていた。
それに本人は気付いて居ないだろうが、獄寺はハルを邪険にしながらも優しいし、時たま甘えてくることだってあるのだ。気を抜いている時には礼を言うこともあるし、謝ることもある。そういえば、好きとも言わない代わりに、嫌いという言葉を彼が使わなくなったのはいつくらいからだろう。
がたん、とバランスを崩した缶が机を滑る。床に落ちそうになるのを慌てて手で受けとめてほっと息をつくと、鼻先で鰺の香ばしい匂いがして小さくお腹が鳴った。てのひらでお腹を押さえて風呂場とトイレに続くドアを見るが、音がいまいちよく聞こえないせいで一人と一匹の攻防がどうなっているのか伺えない。
とりあえずお昼は軽くペンネを塩ゆでして、ズッキーニをオリーブ油で低温で炒めてしっとりさせたところにニンニクとトマトを合わせよう。ショートパスタはかために仕上げるとソースが絡まないきらいがあるから、やわらかめにゆでるといいとビアンキが確か言っていた気がする。最後はペコリーノチーズをかけるところだけど、獄寺に作るならかけなくてもいいだろうとも。
ほとんど日本食で育ってきたハルはイタリア料理に関して知識が皆無に等しく、ビアンキに何度となく指南を受けに行っては獄寺に覚えた料理を披露しにここを繰り返し訪れているが、今のところ美味しいという評価が下されたことがなく、まあまあだとか普通だとか、美味しいと言わせたい人間としては納得のいかない返答ばかりでちょっと虚しくないこともないのだが。確かに自分はそこまで料理が上手いわけではないが、以前と比べればずいぶん上達したんじゃないかと思う。もう頃合いか、と引き出して皿に乗せた鰺は綺麗な焼き色でたまらなく良い薫りだった。早く出てこないかな。獄寺がまともに食事をとっていないと綱吉に聞いて居ても立ってもいられなくなりやって来たはずなのに、朝ご飯を抜いてきたせいでお腹の悲鳴は大きくなる一方だ。

「‥‥‥おい、ハル、具合悪いのか」

はっと後ろを振り返ると、いつの間にかすぐそばまで来ていたらしい獄寺が、濡れた頭をバスタオルで拭くのも忘れて猫を抱いたまま身を僅かに屈めてハルを見ていた。

「‥あ、お腹、空きすぎて痛かったんです」

無意識に回していたお腹の上の腕を退けながら言うと、獄寺は呆れた息を漏らして「なんとなくそんな気がした」と心配そうな色を潜めて欠伸をこぼした。だから、だらしない顔だ、とハルが笑ったら髪を拭くのに動かしていたタオルで拭おうとした目尻の涙をそのままにして、ふいと顔を逸らしテーブルとセットでハルが買ってきた白いイスに獄寺が腰掛けてしまうだなんて。なんだか余計におかしくて、機嫌を損ねないよう笑うのを堪えるのがちょっと辛い。

「す、すぐ用意しますから、待っててくださいね」

子猫の湿った毛をタオルで丁寧に撫でていく横顔は、怒っているというよりも拗ねているといった方がしっくりくる。背を向けた瞬間ハルは口に手をあてて、笑いを噛み殺すのに必死になってしまった。しかし急がなくてはとお椀に味噌汁、レンジにはご飯を入れて5分程。子猫には、そうだ、猫まんまと言うからには味噌汁ご飯をあげればいいだろう。箸を二人分、椀は三人分用意して机と床に必要なだけ揃えてさあ召し上がれという状態になって、ハルはほっと息をついた。獄寺はみいみいと小さく鳴く子猫を床の椀の前におろして、ハルをちらりと見る。

「‥猫、」

「え?」

「飯、これでいいのかよ」

「えっと‥」

「塩分とか、猫には多すぎんじゃねーのか」

「‥そう、なん、ですかね、」

「‥わかんねーけど。そんな気がする」

「‥‥あっ!じゃ、じゃあハル今から何か猫ちゃんのご飯、買って、きます!」

「いや、まあ‥今はいいだろ。もうこいつ、食っちまってるし」

席を立ちかけたハルに獄寺が下を指差して言うと、躊躇いなく椀に頭を突っ込んで食べる子猫がそこに居て、ハルはかたんと腰をおろして眉尻を下げた。

「ハル、そこまで考えてませんでした‥最低です」

煙草の箱を手持ち無沙汰に弄ぶ獄寺は、空いている手の方で頭を掻いて鼻だけで息をつく。呆れられているんだろうなあ、そう思いながらハルは「ごめんね」と子猫に言ったが、子猫は聞こえないふりをして食事に没頭していた。

「‥食い意地張ってるとこも、おまえにそっくりだな」

「はひっ!な、なんですかそれ、ハルは食い意地張ってなんかいませんよ。それに、も、ってなんですか、も、って」

「なんか、色々」

「なんか色々って‥気になるじゃないですか!」

「あーもー、気にすんな、さっさと飯食うぞ」

「獄寺さんのアホ!」

「‥うるせーな」

眠たそうに細められた目を怒りを込めた眼差しで見つめるが、無視を決め込む獄寺は箸を綺麗に持って味噌汁をすすり「まあまあだな、」とお決まりな台詞のうちの一つを呟いた。

「‥獄寺さん、そこ美味しいって、嘘でもいいから言うところですよ」

「めんどい」

「なっ‥!」

「まあ、白米は美味いか」

「‥‥‥もういいです。聞きません」

「そーしとけ」

唇を尖らせてハルは箸を持つと、ずず、音を立てて味噌汁を飲んだ。さっき味見をした時より味が濃くなっている。お湯をすこし足しておけばよかったかなと思ってため息を吐くと、獄寺は勘違いしたのか「てゆうか、別に不味いとは言ってないだろ」と口をご飯でもごもごさせながら言って、飲み込んだ。

「‥分かってます、分かってますよ。ハルだって分かってはいるんです」

「は?」

「でもなんてゆうか、こう‥‥もうちょっと恋人らしかぬ発言や態度があってもいいんじゃないかとか思わなくも‥‥‥‥、いえ、やっぱりなんでもないです、ええ、なんでもないので気にしないでください。‥それより、ハル、ご飯食べたら猫ちゃんのお昼ご飯買って来ます」

「‥おう」

「獄寺さん、すこし寝るでしょう?」

「ああ、すこしな」

「じゃあハル、その間に行ってきますね」

「ん」

短い返事にももう慣れたもので、頭の中で煩い邪念を振り払いながらハルは焼き魚を堪能しようと意識を集中する。
しかし直ぐ様、そういえば洗濯物はたまっているのだろうか、綺麗好きとはいえ忙しかったのであれば、散雑としていないにしても部屋の掃除は出来ていないのだろうなあ、ああ、けれどそれなら、洗剤類の残量も確認しておいて、無ければ猫ちゃんのご飯のついでに一緒に買って来ておいた方がいいだろうかと、一つが頭をよぎれば連なって次々と思考が繋がり脳内が一気に慌ただしくなる。
それに前来た時よりヤニ臭い気がするし、消臭剤も必要だろう。ペット用のシートなんかも気になるし、ああ、そうなるとブラシや玩具類も見ておきたい。
わくわく、なんだか楽しくなってくる。

「こぼしてんぞ、」

ふいに言われて手元を見れば、口に運んだはずのご飯がこぼれてしまっていた。なんたるミステイク。勿体ないことをしてしまった。
今度こそ、と食事に意識を戻して前を向く。
するとやれやれと言いたげにため息を吐く彼と目が合った。

「‥な、なんですか?ハル、もうご飯はこぼしてませんよ!」

「アホ、ちげぇっつーの」

呆れながらシルバーアクセサリーが光る手を伸ばして、これでもかというほどに仕方がないと言いたげな顔の獄寺は、ハルの口についた米粒を取ってやった。

「ったく、ガキじゃあるまいし‥」

そうぶつくさ言う獄寺がなんでもないふうにそれをぱくりと口に運んだ瞬間、ハルは自分の顔が不覚にも熱くなるのを感じた。じとり、それが悔しくてなんだか恨めしい顔になる。
だから、それはどうもすみませんね、と何も動じていないような顔を装ってツンと言ったけれど、彼は時たま急にこんなことをしてくれるものだから本当に嫌になる、とハルは奇声を上げそうになるのを必死に堪えていた。
顔が爆発してしまいそうになるほどではないけれど、つくづく心臓に悪い人だと思う。いきなりこんなことをするのはやめて欲しい、と。
ああ、けれど、そう思いながらもどうしようもなくうれしく感じてしまっている自分がいるのも確かなことで、その辺り存外に重症だとも思う。心底自分が憎くてたまらない。
随分と明るくなった窓の外は快晴だ。
火照る頬を気にしないようにしながら空になった食器を重ねると、ハルは椅子を引いて食器類をさっさと片付けてしまおうと席を立った。シンクに食器を置きながら蛇口を捻る。
斜め下を見てぼんやりしていた獄寺は、ここから見えにくいがまだご飯を食べ終えていない子猫を眺めていたようだったが、その音にはっとすると手元の食器を重ねてハルの立つキッチンへと移動した。

「‥ん、洗い物くらいやる。それ置いとけ」

「でも、疲れてるのに」

「‥‥おまえな、その疲れてるとこに突撃して来たのはどこのどいつだ」

「はひ、検討もつきませんね。ボーイフレンド思いのキュートなガールフレンドならここに居ますけど」

「ほお、どの口が言うか」

「もちろん、この口ですよ」

にっこりするハルに獄寺はこれ以上言っても無駄か、と苦い顔で天井を仰いだ。次いで漏れる疲れた溜め息。

「‥‥‥皿洗いはやる、だがしかし昼飯を作る気力はない、あと久々にパスタが食いたい、てゆうかなんかもうすげー眠い」

かくん、と今度は力なく顔を正面に戻して、ほとんど一息で単調に言った獄寺は眠たげに、言い換えれば物凄く目つきの悪い顔でむすりと口をへの字に結んだ。ハルは一瞬きょとんとしたが、すぐさまその意図するものにピンときておかしくなる。だから少しだけ笑って、ここは折れることにしておいた。

「じゃあ、ハルは少しお掃除をしてから出ようと思うので、こちらはよろしくお願いしますね」

みいみい、小さな鳴き声とハルのくすくす笑いがさざ波のように重なって、獄寺は居心地悪げに舌打ちをした。
しかしすぐさまかちゃり、と食器の音が後を追って高く鳴る。
それにつられてハルが視線を移せば、きちんと米粒一つ残さず平らげられた食器が目に入り、ハルは嫌ににっこりした笑みを浮かべた。

「随分、きれいに召し上がられたようで」

「‥‥うっせぇ。まともに食ってなかったから腹が減ってたんだよ」

バツの悪そうな獄寺がぶっきらぼうに言うと、収まりかけていたハルの笑い声は再び大きくなり、獄寺は渋い顔になった。
加えて、空になったらしい子猫の椀を見つけたハルが「美味しかったんですねぇ、こんなにきれいに食べてくれて。よしよし、ハルはとってもうれしいです」と少しばかり大きめの声でわざとらしく言うものだから、獄寺はもう、何も言うまいと堅く口を結ぶと二人分の食器をさっさと先に片付けてしまうことにした。










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