それ以外のものなんか、まるで必要としちゃいないみたいに視界からは何もかもが掻き消されて、たった一人の姿しか映らなくなる。
おれの瞳は、瞬きをすることも出来ず息をのんだ。
ずっと、ずっとずっと、ずっと昔に記憶から消しさったはずの、遠い人が、人込みの中を歩いていたのだ。
なにひとつ変わっていない背中は小さく遠い。
だからか、呼吸が苦しくなって俺はわけも分からず、気がついた時には走りだしていた。けれど容易く彼女に追い付いてしまい、ふっと肩へ伸ばしかけていた手を躊躇いながら下ろす。一体、どうするつもりだったのか。どうしたかったのか、と。
きびすを返し、小さな震えの残るてのひらに息をつく。
平凡な町並みが赤々と染まる夕暮れは、いつまでもこの思考の片隅に居座り続けるひどくなつかしい記憶のように柔らかく切ない。
それを堪えようと、ぎゅうと握り締めてしまったこぶしが滑稽で、自嘲の笑みが零れた。

「‥あら?ねえ、あなたもしかして、」

耳鳴りが、する。
か細く淡いイメージの声が、網膜に焼き付いていた彼女の姿にかちりとハマり耳に届いた。
途端にどくどくと煩く鳴りだす心臓と緊張で、ひどく気分が悪くなる。
ゆっくり、何気ない体を装って振り向けば、その先にあった不安げな表情は一拍ののちに破顔した。

「ああ、よかった、やっぱりそうだったわ!シャマルくんよね?」
「はい‥奈々、さん」
「久しぶりね」
「そう、ですね」
「ふふ‥ホント、久しぶりだわ」
「‥お変わりないようで、安心しました」
「シャマルくんもね。なんだか‥何十年も会ってなかったみたいな気がするわ」
「俺も、そんな気がします」
「‥ねえ、シャマルくん」
「はい、」
「当たり前のことだけど、もう、すっかり大人の男の人なのね、」
「それを言うなら、奈々さんこそ」
「あら、お世辞まで大人びてるわ」
「奈々さん‥からかうのはよしてくださいよ」

苦く笑って言えば、彼女は「ごめんなさい、嬉しくてつい、」と悪怯れなく微笑んだ。
懐かしさと、真新しさを滲ませたそれに、目の奥がぎゅうと痛くなる。
瞼の裏側にしくりしくりと、何か熱いものが広がっていく。

「‥また会えて、よかった」
「そうね、私もだわ」

笑って、彼女はおれのことをじっと見つめていた。何も変わっていないやさしい目。綺麗な琥珀色。
空の色がそれに反射して、彼女の瞳は怖いくらいに輝いていた。
その、息子の目とはちがう美しさに、おれは顔を歪めてしまいそうになる。
欲しくて、欲しくて欲しくて仕方なかったその眼差しは、おれが望んでいた温度で昔と同じようにおれを包み込んでくれていて、なんだか、泣いてしまいそうな気分になる。

「‥あ、じゃあ、俺はこれで、失礼しますね」
「そんな、うちで何か飲んでからでも、」
「いえ‥嬉しいんですが、実は今から恋人と待ち合わせで」

困ったように笑んで見せて、それらしい嘘を口にすれば彼女は目を何度か瞬かせて口に手を当てて驚いた。それから、一気に眉尻を下げて頭を抱える。

「やだ、そうだったの!?引き止めてごめんなさいシャマルくん!は、早く行かなきゃ‥!早く‥!!」
「は、ははっ、いや、奈々さん、そんなに慌てないでくださいよ。彼女は逃げたりしませんから。それよりなんだか‥久々の再会だってゆうのに、すみません」
「もう!そんなの構わないで良いから早く行かなくちゃいけないでしょ!ほらほら、早く!」
「‥はい。じゃあ、お元気で」
「うん、シャマルくんも、元気でね」

放課後、仕事を終えてから白衣を脱いで、持ち帰るものはこの身以外なに一つない。特にたいしたこともなく過ぎた今日を反芻しながら部活帰りの女生徒に過剰な挨拶をして回り、俺の一日は終わっていく。
こっちに来てからは、リボーンの奴が大人しくしていればほとんどがそんな毎日だ。
(だけど、きっとおれはこうなることをずっと望んでたんだ、)
リボーンに呼ばれて日本に来ることを決めた時も、その後も。守りたいと思った人は心の中でとっくに決まっていて、けれどそれは叶わないことだと分かっていた。遠い日のあの心。
その声を、姿を、顔を、瞳を、空気を、遮るものなどなくその彼女の一つ一つをおれは具に感じたかったのだ。消し去ったつもりになっていたけれど、それは結局、つもりでしかなかったのである。
だって、こんなにも会いたかった。そうして、こんなにも忘れたかった。

「さよなら、奈々さん」

片手を上げて別れを告げる。
もう一度振り向きたいと思ってしまう卑しい思考は苦笑いで誤魔化した。
彼女の目に映されていた赤い赤い夕空はもう、霞っぽい群青に変わりつつある。
それだけがとても切なくさせる事象であるかのように、俺は少し目を細めた。
ああ、彼女の背中はもう見えない。
伸びた不精髭を指先で撫でながら、おれは堪えるようにふっと息を止める。
なんだか鼻の奥がツンと、水の中で間違って息をしてしまった時のようにひどく痛くてたまらなかった。








ときどきわたしのからだはでたらめに女々しくなる





title:深爪




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