「ねえ、ハル。こっち向きなよ」

「‥な、なんでそんなことしなくちゃいけないんですか」

雲雀に背を向けて空を仰いでいたハルは、小さく鼻を鳴らしながらつんとした声で言い放った。
しかし雲雀は無理矢理にハルの顔を自分の方へと向かせると、涙と鼻水で濡れに濡れたハルの顔にシャツの袖を押しつける。
ごしごし、ごしごし。
無言で拭われていくそれらは、
ぐちゃぐちゃと袖を汚していっては遠慮のない拭い方をしてハルに痛みをもたらした。
首を振って嫌がってみても、雲雀は口を閉じたままハルの濡れた顔を拭い続ける。
痛いです、離してくださいと喚いても解放されないのはもうわかりきっているけれど、それでも怒りと悲しみから抵抗せずにはいられない。

「ひ、雲雀さんがなにをしたいかなんて、ハルにはさっぱりわかりません。ちんぷんかんぷんです。きらいです、もう、わけがわかりません、いたい、いたいです、はなして、」

同じような台詞を前回も前々回も吐き捨てた気がするけれど、そんなの全く構いやしない。
ボキャブラリーが少なかろうがなんだろうが、だってそれが今の素直な気持ちなんだもの。
だからしたいようにさせながら、とゆうよりもそうするしないと表現する方が的確なハルは、思いつく限りに罵りの言葉をあげていった。
中には近頃悩んでいたことの愚痴やら嫌なことがあったなど、関係ない事柄まで入り乱れた気がするが、もう気にしないでノンストップ。
だけれどそれも次第に底をついてきて、だらだらと同じことの繰り返しになりはじめる始末。
そのようになってくると、雲雀はハルの言葉を無表情に遮って、決まってこう言ってくる。

「ハル、目が腫れてるから、家に帰ったらちゃんと冷やしておくんだよ」

と。
ええ、それだけ。
それだけをかならず、ちゃんと優しく一言だけ。
そしてそのあとハルは不思議なことに、これまた決まって思わず頷き、はい、と素直に返事をしてしまう。
だって、どうしてだかこの時にはもう、何故だかすべてどうでもよいような気持ちに包まれてしまっていて、送ると言う彼に気付けば何も言えなくなってしまうのだ。
拭うのに片方だけでは足りなかった雲雀の服の袖は両方とも、
透明のものながら見事に濡れていた。
ハルの顔もお世辞にもきれいに拭い切れているとは言えないひどいものになっていることだろう。
ツナさんに告白する度、フラれる度、この人はハルの目の前に現われて、なぜか泣いているハルの涙を拭ってくれる。
それに対して、毎回ハルはひどく腹を立てているはずだった。
一人きりで悲しみに暮れて、悲劇のヒロインを演じさせていてほしいのに。
なのに、なぜか結果的に最後にはほっとしている自分がいるのは、いったいどうしてなのだろうか。

「‥雲雀さんは、ハルが嫌いじゃないんですか?」

「嫌いじゃあないよ」

「‥それじゃ、好き、なんですか」

「そうだね、好きなのかもね」

「う、うそつかないでください‥ハルは、そんなの信じられません」

「じゃあ、信じなくてもいいよ、別に」

近くにとめていた車のドアをあけながら雲雀は淡々と返事を返す。
ハルはそんな雲雀の返答にぽかりと口を開けてまだ鼻水が煩い鼻をごしごしと手の甲で擦った。

「鼻、赤くなるよ」

車に乗り込む前に横目で見てきた雲雀に言われ、素直に手をおろす。
立ち尽くしていると、運転席に座り鍵を回した雲雀は、窓を下げて乗らないのとハルに問い掛けた。
ぼんやりしていたハルは我に返り急いで車内にお邪魔したが、そこでまたどうしてかほっと安心している自分がいることに気付き、首を傾げた。
彼はハルが嫌いではなく、好きかもしれない。ならば自分は、自分はどうなのだろうか?
好き、嫌い。
いったいどちらになるのだろうか。
迷うことなどあるはずがない問答、しかしもやもやとしたものが思考をかき消す。
答えはどっち、好き、嫌い。
わからない。
どっち?
ああ、わからない。ああ。
一点を見つめたまま、先程までぎゃあぎゃあと騒ぎまくっていたことなど嘘のように静かになったハルに雲雀は、呆れた声で三度目の注意をした。

「ねえ。シートベルト、してくれないと困るんだけど」

「は、はひっ!すすすみません‥」

慌ててハルはシートベルトを手に取り、かちり、音を鳴らした。
満足したらしい雲雀は鍵を回してハンドルを握り、車はゆっくりと発進する。
ぼんやり頭に浮かぶのは、好きだった、いや、今もまだ好きなあの人に告白した記憶。
両思いなんか望んでいない、ただ自分の気持ちを伝えたいだけの自分勝手な我が儘を、それでもツナさんは優しく受けとめてごめんねと口にしてくれるから。
それなら、
手に入らないならば、せめてそんな顔のツナさんだけでも、なんて気持ちだけで叶わない告白を何度も繰り返すハルは、きっと自分のことしか考えていないいけない子なのだと思う。
そのくせをして、フラれた事実と少しだけ悲しそうなツナさんに胸が痛くなるから、泣いてしまう。
本当はこんなことをしていてはいけないと分かっているのに。
だけど、そんな時、彼はいつだって駆け付けてくれる。
隣で表情を見せないまま運転するきれいな横顔は、今は真っすぐ前に向けられているけれど。
バイオレンスでデンジャーなのに、泣いて慰めてくれるわけでもないのに、それでもおかしな話だけれど必ず涙だけは拭ってくれるのだ。
考えながらじっと見つめていたら、何、と前を向いたままに聞かれてしまいハルは返事に困った。
なんでもないです、そう口にすれば、そう、としか返事はない。
だからハルは少しむっとする。
この人のこういうところは嫌いだと、はっきり思う。
好き、嫌い、好き、嫌い。
けれどハルの答えは、まだ出ない。
しかし出さない方がいいような気がしてハルは眉根を寄せながら、ぷいと助手席の窓の外に目をやった。
考えないことにしよう、そうしておこう。

「‥‥雲雀さん、服、すみませんでした」

ハルがむっとした口調で言うと、雲雀は前を向いたまま少し笑った。ハルは見ない。

「そうだね、君の鼻水が固まってぱりぱりになってるよ」

「っ、だからすみませんでしたって言ってるじゃないですか!」

「ハル、声、大きい」

「‥‥すみません‥」

子供のようにハルは体を小さくして、ぼそりと呟く。
はて、しかしそういえば、彼がハルをハルと呼ぶようになったのはいつからだっただろうか?
眉間に皺を寄せて考えはじめたハルを雲雀が、横目でおもしろそうな顔をしながら見ていたことなど知らぬままに、ハルは自分の世界に沈んでいった。































おとなりのあなた




第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -