その日はとても寒い風が横殴りに体へと吹き付けてくるような嫌な天気だった。最低な気分で外に出れば案の定、鏡の前で入念に整えた髪はばさばさと無常に乱され、あたしは増長する苛立ちを奏でるようにローファーの音を煩くしていた。滅入るような曇天、しかも天気予報によれば降水確立は80%だとか。予報が当たる当たらないにしても、まだ昼だというのにこの暗さ、それに加えてこの雲行きの悪さを見て取れば大体の想像はつくというものだ。しかしとりあえずのところ、まだ折畳み傘の出番はないらしい。そのことに少し安堵して、あたしはこれ以上、この右肩下がりの憂欝な気分を過大させないために歩く速度を精一杯に上げる。激しく地面を踏むせいか時々、足元を生き物のように細やかな砂利がおどけたように跳ね上がってはどこかへ行くのが、何故かはっきり目の端に映り込む。抱えた鞄の中には試験前のせいで辞書やプリントの山が犇めき合っていて、進む足をひどく重く感じさせていた。もうほとんど小走りで道を行くあたしは、上がり始める息でひゅうひゅうと下手くそな呼吸音を漏らし続ける。痛い。口から鼻から必死に、体が求める空気は肺を刺すような鋭さでどんどん体内を巡る。腕がだるい。からから。後ろから迫る何かの回転する音が耳を掠めて、疲れたあたしは立ち止まって後ろを向いた。自転車にまたがり、優雅にマフラーをなびかせるよく知った顔。
「‥山本」
軽く乱れた息の合間に呟くと、こっちにはとっくに気付いていたらしい黒い瞳が二つ、にかりと笑ってあたしの隣に滑り寄る。
「おはよ、黒川。何でそんなに急いでんの?まだ全然、時間に余裕はあるのに」
自転車に乗ったままそう言う山本は、ゆっくりと歩きだしたあたしに合わせ、足で地面を蹴ってスピードを落とす。はきはきと動く山本の口に合わせて舞い上がった息の白さが、赤い鼻を目立たせていた。
「だって、雨が降りそうじゃない」
怒ったように唇を尖らせて言うあたしを山本が笑い、白い息がふわりと舞って、からから車輪の音がする。
「んじゃあ後ろ、乗ってく?」
事も無げに言われた言葉にすぐさまこっくりと頷きたい衝動に駆られたあたしは、だけど静かに首を振って遠慮した。
「それよかあんた、朝練は?」
野球部の朝練は自主的に行われているものなので、遅刻するということはまず無い。けれど山本が毎朝欠かさず、定時にはグランドの隅でバットを振っていることをあたしはちゃんと知っていた。
「今日はもう、早起きしてジョギングして来たからへーきへーき」
「素振りは?」
「あー‥‥、ちょっと一昨日に手首やっちまったから‥うん、お休み的な感じ」
「何、怪我したの?」
「いやーまあ怪我ってほどでもないけど、なんか軽く捻っちってさあ」
それから山本は、うはは、なんて馬鹿みたいな笑い方。全く、期待のエースが何やってんの。呆れるあたしに山本は笑って、こんなもんすぐ治るからへーきへーき、と湿布処置の施された手首を見せ付けた。からんからん。砂利を巻き込むせいかリズミカルに音を立てる山本の車輪は、暗鬱な天気には不似合いな明るさだ。
「なあ、黒川ー」
「‥‥何?」
「やっぱり後ろ、乗ってけば?」
山本はにかり、快活に笑って、あたしの重い鞄を奪い取る。拒否する前にあたしは閉口して、重さを無くした体と山本の笑みに違和感を感じ、片眉をひくりと持ち上げた。空は暗く、髪をぐちゃぐちゃにするのが楽しいような強風は相変わらずそのままだ。
「すげー寒いし、まだ学校まで距離もあるだろ?」
そう言って浮かべられた笑顔はまるでいつも通りなように思える。だけれどあたしは山本が、普段の子供っぽさを影に潜めて、あたしの知らない顔で静かに微笑んでいるような錯覚が間違いではないことにふっと何故だか気付いてしまった。
「‥いい。そうゆうのはあたし、いらないから」
何か屈辱に似たような、それでいて悔しさにも似たような感情が耳の裏でぱちんと弾ける。あたしはこんな、こんな距離の詰め方をされるのはとても苦手だし好きじゃない。心の中にまで唐突に踏み込まれて来たような気になって、落ち着かなくなる。苦い気持ちで前を見据えて歩くあたしは、隣でまだ笑う山本の気配を感じ取ってひどく恐ろしくなってしまった。
「ね、黒川、怒った?」
「別に」
「うん、そっか。‥じゃあ、俺も一緒に学校まで歩いて自転車押してくって、それならいい?」
「‥勝手にすれば」
平静を装うあたしとは反対に、からん、からから。自転車は山本の気分を教えでもするみたいに軽快な声を上げて、山本はにっこりあたしに微笑みかける。
「分かった。じゃあ、勝手にそうする」
そうしてご機嫌になったのか、山本は楽しげにハミングを口ずさみ始める。
今にも降りだしそうな空はどうにかまだ泣きだす前の色で、どうしてこんなにじわじわと責められるみたいな理不尽さを自分が感じているのかと考えれば、あたしの頭には山本の台詞がフラッシュバックする。
(俺、黒川のこと、嫌いなんだよな)
数日前唐突に浴びせられた告白を思い出して、あたしはぶるりと身震いをする。嫌い――そう、この男は、あたしのことが嫌いなのだと言う。別に、嫌いなら嫌いで構わない。だけれど、それなら何故、度々あたしに近づくの。
「黒川さ、今日、傘持ってきた?」
「持ってきたけど‥それがどうしたのよ」
「いや、今日忘れて来たから帰りにもし雨が降ったら、入れてもらおっかなーと、思ってさ」
「‥え、嫌、なんだけど」
「まあまあ、そう言わないで。ちょっとくらい、いいだろ?」
からんからん。山本の笑みは、まるで曇天には似合わない屈託の無さであたしを圧迫する。
嫌悪感というより得体の知れなさが勝つあたしの心境を嘲笑っているように見えるのは、あたしがこいつに怯えているから?
(あら、奇遇ね、あたしもあんたが嫌いなのよ)
だけれど動揺はまだ、どうにか上手く隠蔽している。
「っ、冷た」
顔に当たった何かに驚いて上を見上げると、雨。
慌てて山本の自転車の籠に囚われているあたしの鞄に飛び付き、傘を探す。クリアファイルにくたびれたプリントが散乱する内部。掻き回すように中を探れど、目的の物は見当たらない。
「、さっき確かに、入れたはずなのに」
「‥‥もしかして黒川、傘、忘れてきた?」
「‥‥‥‥‥‥認めたくないけど、そうみたいね」
最初は疎らに、それから次第に密を増して降りだす雨で、あたしも山本も濡れていく。
あーあ。そんな雰囲気で苦笑する山本は、軽がると肩に掛けていた重そうなスポーツバッグのチャックに手を伸ばし、クイズの答えを仕方なく白状するみたいな動作でぱっと、あたしの目の前に黒い折畳み傘を取り出した。唖然とするあたしの顔が面白いのか、苦笑して山本は手早く傘を組み立てる。
「ん、これで問題解決な」
そして何事もなかったかのようにいけしゃあしゃあと言って、傘をあたしと自分の間にさす山本にあたしはキレた。
「ちょっと、あんた傘持ってたんじゃないの!!」
「うはは、うん、ごめんごめん」
「もう!本当に意味分かんない‥!!」
目を吊り上げて言うあたしに、山本はむっとして唇を尖らせた。
「そっかあ?俺ってすっげぇ、分かりやすいと思うんだけどなあ」
不服そうに言われても、あたしは理解の範疇を越えた山本の言動や行動や思考に苛立ち、焦り、顔でもぶん殴ってやりたいような気持ちになる。ムカつく。何がと限定的に言うならば、この、山本の落ち着きように腹が立つ。子供みたいに混乱の中で、不安に立ち尽くすしか出来ない自分に腹が立つ。
「あんた、何がしたいのよ」
泣きそうな声で呟くと、山本は笑みを隠して黙り込んだ。自転車の進む音はもう止んで、今は傘にぶつかる雨の音が騒がしい。濡れた髪が張りつく頬は、冷風に吹かれて痛み出す。
「別に。ただ、黒川と一緒に居たいだけ」
きぃんと耳鳴りがするあたしは、その言葉に顔をしかめた。少し前までならこいつの声は、こんなに低くはなかったはずなのに。
骨張った指先が頬の髪を後ろへ流して、あたしは触れられた場所がちくちくと熱を持つのを感じ取る。
「‥あたしのこと、嫌いなくせに」
唇を噛む口が傷ついたような声音で萎む。
山本は否定も肯定もせず、優しげに小さく声を立てて笑うと、あたしの頬をさらりと撫でた。暖かさと共にやはり痛みが訪れて、胸にざわざわ不安が広がる。
「俺のこと、嫌いなくせに」
溶けそうな笑みでそう言いながらも、徐々に近づく顔には何だか狡猾さが見え隠れしている。
ねえ、それならなんでこんなふうに、キスするの。
思えどそれを口にしないあたしは結局、微笑む山本と大差などない。

























裏 表 の 重 嘘




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