窓を隔てたその向こう側で、湿った雲の隙間から伸びた光の筋が、何本も細く長く下界へと降り注いでいた。
まるで、映画か何かで見たような、天使が空から降りてくるシーンみたいだとあたしはぼんやり考える。
けれど、その光はきっと地面まで続いてなんかいやしない。
天使様が降り立つ場所として、こんな排気ガスに塗れて人で溢れた町中なんかまるで似合わないのだ。
例えばヨーロッパだかどこかだかの、ひっそりとした教会なんかがいい。
勝手すぎる独断と偏見のイメージでしかないけれど、そういうふうならしい場所に現れるのがぴったりだと思う。
ほら、羽とかはやしたりしてて、綺麗な金髪に優しい微笑みとか多分浮かべてきらきらした光と一緒に降りてくるんだ。
きっと、その様は言葉を放つことも出来ないくらいに美しく神々しいに違いない。
(ああ、だけどだから、それがどうしたってお話だ)
天使に会えたらお金くれるだとか幸せになれるとか、別にそんなルールあるわけじゃないし。
大概くだらないね。
思って、すぐさま柄じゃないとあたしは短息して視線を前に戻し、なんだかこれから崩れて来そうな天気の方の気を揉むことにした。
陳腐な想像も口に出さなければ些細な出来事を忘れてしまうのと同じくして、時間経過に伴い無に帰されるのである。
「なあ、黒川。なんか元気、なかったりする?」
ふいに、ふわりと苦笑う気配がして、つられたようにあたしは声の方へ目をやった。
視線の先にはつい先日から隣人となった、山本の予想を裏切らないへらりとした小さな笑み。
「別に。なんか天気悪くなりそうだから、やだなって思ってただけよ」
「そ、か。ならいーや」
漆黒、とまでは行かない黒さの目を細めながら山本は柔らかく相好をくしゃりと崩した。
そうして、すぐさま外へと視線を移すと、困ったような表情になって唇を尖らせる。
「でも、確かに天気悪いよな。朝から降ってたのがやっとさっき止んだかなって思ってたけど、なんか、また振り出しそうな雲の色だしな」
呟く山本にあたしはなんとなくつい、そうよねなんて返して頷く。
くるくるとよく表情が変わるやつだなあ、そんなことを考えてはまたつられて窓の向こうの曇天に視線をちらり、移す。
すると何故だか隣からは笑う気配がして、それから山本の声が耳に届いた。
「なあ、黒川、今日傘持って来てる?」
「当たり前でしょ。じゃなきゃ朝から濡れ鼠になってるわ」
「うはは、そっか。じゃあ、もし今日の帰りに降ってたら黒川の傘に俺、入れてくれねぇ?」
「‥‥は?」
「いや、今日持って来てなくってさ」
「‥朝から雨、降ってたのに?」
「うん、そう。降ってたのに」
怪訝そうに言うあたしに、山本はいつもの馬鹿みたいなうははって笑い方で返事をして、頭を掻いた。
「黒川、ぜったい約束な」
その、弾んだような声の、寒気がするくらいに優しい響き。
話し方、目の動き、笑った時の皺の寄り方、纏う空気。
それらはいつも通りなはずなのに、けれどどうしてかあたしはその全てにじわりとした違和感を感じていた。
胸に滲むのは不安と動揺。
まさか、この普段の笑顔を装った笑みには何か裏がある?
にこにこと笑みを向ける山本を見つめながら考えるあたしは、なんだか主導権を握られたような錯覚に陥った。
席替えをしたばかりの、まだ見慣れない目線と景色も手伝って、なんだか言葉が出てこない。
けれどそんな内心を押し隠して、山本が普段の笑顔を装っているのに習い、あたしは興味を失ったみたいな顔を装うことにした。
隣の山本が未だ笑む気配を漂わせていようが、とりあえず今は体裁を保つことの方が重要なのである。
そう言い聞かせるようにしてあたしは、無表情に窓の外へ顔を向けた。
「‥勝手にすれば」
言うと、山本はうはは、いつもの山本らしい笑い方で笑ったようだった。
「あんがと。黒川、やさしいのな」
「うるさい。あたしは別にやさしいわけじゃない」
「うはは、うん、じゃあやさしいけどやさしくないのな」
「はあ?意味わかんない」
なんだか、いらいらする。
不透明な何かが体のどこかで大きさを増していって、じわじわと秘かに乗っ取られでもしていくような感覚に捕らわれる。
だって、あたしの記憶が確かならば、山本はきっと傘を持って来ているはずなのだ。
場所が変わって間もない自分の席に着き、朝の挨拶を交わした山本は確か髪の一筋だって濡れていなかった。
(じゃあ、ならばさっきの言葉の意味は?)
考え出すと、いやまさかそんなはずはないと打ち消したくなる想像が頭に浮かび笑いたくなった。
頬杖をついて眺めやる窓越しの空は風が強いようで、ひゅるひゅるとさらわれるみたいに雲が速く流されていく。
「んん。雨、降らないのな」
ぽつり、呟いた山本の声音が、どことなく残念そうに思えたなんて、きっとあたしの思い違いに決まってる。
だから聞こえなかったふりをして、あたしは次の国語の準備を始めた。
「あ、そか。次って国語なのな」
あたしが国語の教科書を机に出したところで一人頷くと、山本は机の中を覗き込んで教科書か何かの行方を探し始めた。
しかし数十秒後、がさがさと音を立てて机の中を引っ掻き回していた山本はふいに動きを止めると、あたしに向き直り口を開いた。
「なあ黒川ぁ、教科書見当たらねーから机、くっつけてもいい?」
「‥‥‥‥え」
多分に、あたしは嫌そうな顔で固まったことだろう。
けれど山本はにっこり笑うと、タイミング良くか悪くか、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴るのに合わせて、がたんと机を持ち上げた。
「ほら、借りに行くにも間に合わねーし。黒川やさしくないけどやさしいから、教科書見してくれるよな!」
満面の笑みで言いながら、自分の机をあたしの机にくっつけて、移動させた椅子に腰を下ろす。
「‥ちょっと、ねえ、なんで無いの?ロッカーは?」
「ん?あー、無い無い。俺ロッカーはユニフォームとかしか入れてないし」
「はあ?じゃあなんで無いのよ。あんた教科書家に持って帰るような奴じゃないでしょ?」
「さあ‥なんでだろ?誰かに貸したまんまなのかもなー」
「‥つーか、あんたいつもはほとんど授業寝て過ごしてるくせに、急に何なわけ?」
「いやぁ、次の期末はやばい気がするからちょっと頑張らねーとと思ってさ」
なんて言い合っている内、国語の担当教師が教室のドアを開けて号令が掛かり、仕方なく口をつぐんで起立、礼。
「あら‥?山本くん、黒川さんの席に机をくっつけてどうしたの?教科書忘れちゃったのかしら?」
「あ、はい。けど黒川さんが見せてくれるらしいんで今日は勘弁して欲しいっす」
「は!?あたしそんなこと一言も‥!」
「そう、じゃあ悪いけど山本くんに教科書見せてあげてね黒川さん」
「え!?や、あの、」
「あと‥山本くんは、迷惑かけるんだから今日は居眠りしないように。いいわね?」
「うっす。了解しました」
「まあ、いつもその調子で居眠りしないって誓ってくれたら先生うれしいんだけどね」
「うはは、すんません。気ぃつけまーす」
「‥‥‥‥‥‥‥」
周りのクラスメイトにくすくすと笑われながら苦笑って見せる山本を横目に、あたしは苦虫を噛み潰した気分で大きくため息を吐き出す。
口を挟む暇もなければ、口を挟めたって話を聞いてもらえやしない。
拒否権なんてないじゃないか。
(全く、なんて奴だ)
そして思う。
ああ、せめて雨だけは降りませんように、と。
けれどそんな願いも虚しく国語の授業が終わる頃、空からは静かに雨が降り始め、それに気付いた山本にあたしはこう耳打ちされるのだった。
「黒川‥約束、な?」
そう、ひっそりと。
やはり寒気がするくらいに優しい声の響きで笑われて。
それはどこか得体の知れない微笑みで。
だから、なんだかたまらなくなってあたしは思い切り顔を逸らした。
けれど、すぐ傍で楽しそうに声を潜めて山本が笑う。
(ああ、もう、なんなのよ一体)
舌打ちしたい気分で雨のカーテンが引かれた景色を睨みつける。
何を企んでいるのか知らないけど、気味が悪いったらありゃしない。
お返事は
ハイかイエスでどうぞ