暗い廃墟、ひび割れた硝子の破片、亀裂の走る壁に這う草の蔓、青黒い空の端っこ。星だって未だ顔を見せているようなこんなまだ夜とも言えるような朝早くに呼び出されて不機嫌なあたしは、この場にひどく不釣り合いな上等のソファに腰を埋めて念入りにファンデーションを塗りたくっていた。
つい一時間と少しばかり前に眠ったばかりなのにと欠伸を噛み殺せど、まあでも仕方ないわねなんてため息だけで言い聞かせられるのは、相手が骸ちゃんだからだ。(そうでなければ今頃そんな事をした奴は5秒も経たない内に頭が吹っ飛んでいる。)
とにかく、今少し席を外して彼が居ない隙に身なりを少しでも整えておかなくてはと思ったあたしは、必死でパフを顔とコンパクトの間で行き来させていた。
少し荒れた肌にきれいにのるはずもないが、それでも肌理が整っていくのを見れば、シートで落としたばかりのアイラインにアイシャドウ、マスカラを塗りたくる手にもついつい力が入ってしまう。
チークは顔色がよくないのに合わせて明るすぎないオレンジを選び、かさかさの唇には、張り切りすぎてもいけないからと真っ赤な口紅ではなく蜂蜜たっぷりの淡いピンクのリップを乗せる。うん、悪くない。
慎重に作業を進めながらもあたしは化粧を手早く済ませて、お澄ましして可愛らしく見えるように座りなおした。そうしてはたりとスカートを整えて足を斜めにそろえれば、ぼんやりする間もなく骸ちゃんがドアの無い入り口から姿を見せる。
それはもう、お化粧が終わるのを待っていたのかもしれないなんて思ってしまうくらいにぴったりのタイミング。
そしてそれがもし本当にそうであるのなら、なんて滑稽な女、だなんて笑われていたかもしれない。
あたしは頭の隅で考えながら、にこりと笑みを浮かべて見せた。
だってそんなことを考えるのも今更な付き合いなのだ。
あら早かったのねと言えば、微笑みが返されるなんてこと知っているのだから、気にする必要など微塵もない。(そう、確かに最初はそのはずだったのだ。)(だけど今じゃそれはもう、過去のお話。)


「すみませんこんな時間に」

「別にいいわ。骸ちゃんだもの」

「寝て少ししか経っていなかったでしょう?」

「そうね。でも、平気よ」


だって、骸ちゃんだもの。もう一度は言わなかったけれど、言葉の後にそう続いただろう事はきっと彼は分かっているはずだ。
暗がりの中で部屋の入り口からこちらへ近づいては来ない彼にあたしは笑う。


「さ、行きましょ。仕事に」

「おや。デートとは言わないんですねM・M」

「あらいやだ、まさか。帰り血浴びるようなのをデートとは言わないわよ骸ちゃん」

「スリリングなアトラクション付きのデートだとでも思えばいいんじゃないですか?」

「あはは、それいいわね。でもやっぱりそんなデート、あたしいやだわ、骸ちゃん」

「くふふ、そうですか」

「そうなのよ。さ、ばかなこと言ってないでさっさと行きましょ。くだらない話はもうおしまい」


かつん、とブーツの踵が床を鳴らして、あたしは骸ちゃんが立つ入り口まで歩きだす。そうですね、とさしてあたしの言葉に気分を害したふうでもなく笑って言った骸ちゃんに満足げな笑みを返したけれど、ひどく憂欝な気分に内臓器が浸されていく感覚からは目が逸らせなかった。
手に握るクラリネットがずしりと重い。
何も言えない。
(ちがう、)
(言いたく、ない。)
どんなに髪や手や肌、体の隅々まできれいに整えたって意味なんかないのに、頭が悪いふりすらあたしは上手くできないのよ。
おかしすぎて泣けてきちゃうわね、お馬鹿なあたし。


「さあ、M・M」


名を呼ばれてお手をどうぞ、と差し出されたてのひらに迷うことなく手を重ねて、「ありがとう」とあたしが呟けば骸ちゃんは目を細めて薄く笑う。
いとおしい。
そんなものでだってこんなふうに容易く満たされてしまうようになったあたしは、滑稽なくらいに弱っちい雌豚に成り下がってしまったに違いない。
引かれる手がひどく白く滑らかにあたしの瞳に映り込んで熱を灯すから、上手く隣人の微笑みが伺えなかった。
弱くなればなるほど存在意義は比例して失われてゆくのだなんて、そんなことは嫌でもわかっていたのに。
だけど、それならばせめてこんなふうに取る手くらいは、その瞬間だけでもあたしだけのものであったらいいと控えめな独占欲が顔を出す。
きれいな手、長い指、あたしのだって負けてしまうような美しい造形がそそのかす。
ねえ骸ちゃん、だけどそこにあなたの優しさってやつは本当に存在しているの?
(なんて、聞くのも愚かなお話ね)
ああ、人殺しで傲慢で高飛車、愛なんて信じなかったあたしは結局ただの女でしかなかった。そうゆう、ことなのだ。
(ね、だってそうでしょう?)
ぐずぐずと溶ける心臓は嘘をつけない。
けれど平気だ。
何も問題はない。
愛してる、だなんてあたしは死んでも口にしない。
(だけどだから、まだその手だけは離したりなんかしないでいて欲しいの)
ふうわり、ふわり、絡めた腕に冷たい吐息が零れて溶ける。
預けた手から彼に委ねられるものが、愛なんかじゃないってことくらい最初からちゃんと分かっていたのになあ。
あたしはきつく、きつく口を閉じておこうと必死に努る。
静かな胸の痛みなど、致命傷となりうる別れの痛みに比べればそんなものはひどくちっぽけなものでしかないの。
かじかむ指先さえ邪魔になるのなら切り捨てたっていいと思う。
なんて、ちょっとばかり飛んだことを考えていたらなんだかふいに泣きたくなった。
(馬鹿みたい、)
私は彼の駒であり彼は私の雇主。
ギブアンドテイク。
繋いだ手はリップサービス。
意味はない、
意味がない、
意味の、ない。

(くるしい、よ、)

泣きたかった。
泣けなかった。
だってそんなものはこの関係に不必要なものだから。
クラリネットは今日も今日とてずしりと重い。
これはきっと、心の重さだ。
気が滅入る。
(だけど、貴方の手をとりたい。)
繰り返す。
この行き場のない言葉を肺の辺りで焼き潰して、どこまでも続く夜の果てに虚無感を覚える。
ギブ、アンド、テイク。
月は丸くて星は遠い。
凶器はずしりと重たくて、この手はただただ熱かった。
そうして言葉で虚しく意気がって、なんだかやっぱり、泣きたくなるね。
酸素濃度は低下して、
一気に憂鬱は加速する。
輪郭の見えない優しさも微笑みも、心を甘やかに抉る刃でしかなくて、
それだからあたしは陽気にクラリネットを鳴らし、小気味よい音で消し飛んだ対象を笑い指差し馬鹿にする。
そうすれば、ね、簡単でしょう?
契約は果たされる。
恋に溺れる少女はここに居ない。

(なんてうそ、)

終わらないループ。

(あ、あ。)

身の内から、今日も内腑が焼け焦げる臭いがする。
苦しい、いたい。
あなたという存在がこの世にある限り、
消えることのないこのすべてをそれでもあたしは愛しむことしかできないのだ、








































































パッシブ・ループ




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