廊下を歩く間中ずっと、かつんかつんと煩かったヒールの音をやっと止めて、あたしは目的の病室のドアを抜けた。欝陶しく纏わりつく薬品の匂いがこめかみにずきんと痛みをもたらし、朝から下降気味の機嫌は益々悪くなる。気遣うところかわざとらしく足音を立てて近づいて、眉間に寄せた皺を見せつけるように、ベッドに横たわる男をあたしは覗き込んだ。あらまあ、大変だこと。指差すように包帯だらけになった情けない男の面を鼻で笑ってやる。

「ぶっさいくな様ね、」

「‥うるさいわよ、このくそがき」

体を起こすのも痛いのか、にっこりと微笑みだけで返されたけれど白いもので被われているせいでいまいち表情の変化なんて分かりやしない。ベッド脇の椅子に腰掛けて、誰かからの見舞い品なのかぽつんと置き去りにされている林檎を手にあたしはなんとなく、剥いてあげましょうかと呟いてみた。あんたが林檎を剥くだなんて明日は大雨か大雪か、それとも台風でも来るのかしら。そう皮肉られるけれど、エナメルの黒いバッグから取り出した果物ナイフを指先でくるりくるりと器用に回せば、沈黙。

「ね、あんた、あたしがクラリネットしか使えない女だと思って?」

林檎の赤い皮膚を撫でるようにナイフを刺し込んで、滑らかに剥き始めれば赤いゆるやかなカーブの一線は、しゅるしゅるとひとつなぎに伸びてゆく。そうしてあっと言う間に床へご挨拶、ものの数秒で終わってしまう単調作業。
ざくり。あたしは林檎の尻っけつに果物ナイフを突き刺して、さあ遠慮せずにお食べなさいよと親切に差し出してやる。皮を全ては切り離さずに剥いたせいで、尻尾のようにだらんとぶら下がる赤い林檎の地肌が、ひどく無様にゆらゆら揺れた。

「いっそのこと、死じゃえばよかったのに」

受け取られない林檎を真っすぐ突き出したままあたしはにっこり笑う。そうして頭の中でただひたすら、死んじゃえばよかったのにと口にしたばかりの台詞を反芻しながら呼吸する。
べたつく指先が、苛立ちを増長させて口の端っこをひくつかせているような気がしたけれど、全くそんなことには気がついていないふりをして、あたしは張りついた笑みで男を見つめた。
男は、笑いもしないでゆっくり口を開く。

「そうね、死ねばよかった。でも、だめだった」

妙に真面目くさった顔を浮かべる眼前の男は、じっと静かにあたしを見つめる。
かと思うと、ふいにがばりとあたしの体を引き寄せて、あいたたたなんて言いながら、突き出されていた林檎ごとあたしをぎゅう、と抱き締めた。

「っな、に、すんのよ、変態オカマ。気持ち悪いから、早く離してちょうだい」

「あんた‥ホントに失礼な女ね。あたしの抱擁は高いのよ?もっと喜ぶべきでしょう」

「は、なぁに、それ。笑える素敵なご冗談だこと」

あたしが言うと、男は一呼吸の間を置いてから、吹き出すようにくつくつ笑って、肩を揺らした。
それから、男の大きな手があたしの頭をくしゃりと撫でて、髪を梳く。
頭元に落とされるのは、一息つくような短いため息。

「‥あー‥もう。ホント、嫌んなっちゃうわね、」

投げ遣りな独り言のようなその台詞の後に、続けて響く低い声。

「‥あんたのムカつく、そうゆう皮肉がもう聞けなくなるのかしら、だとか‥、そうゆうふうなことを考えちゃったらね。どうしてなのか、死にそびれちゃったのよね。まったく、あたしったら」

ホント、嫌んなっちゃう。体が痛いしベッドは硬いし。そうよ、それにこの病院ったら食事はまずい上に全く、いい体したのがいないのよ、最低だわ、最悪よ。なんて、女口調で途中から早口に誤魔化したってもうどうにも、いつものオカマが言ったことだとは信じられない台詞にあたしはぽかんとするしかなかった。だけれど青臭い林檎の匂いを胸に吸い込んでゆっくり男の胸の中で瞬くと、どうにか無理矢理に小馬鹿にしたような笑みを浮かべて鼻で笑う。

「あら、困るわね。口説かれたってオカマは許容範囲外よ」

「男は金、なんだからオカマじゃなくても大抵の男は範囲外でしょ。あんたの場合」

「まあ、そうとも言えるわね」

「あのね‥そうとしか言えないわよ、あんた見てると」

「ちょっと、失礼なこと言わないでもらえない?あたし、金だけしか見えてないわけじゃあないわ」

「はいはい、そうね。見た目に職業、性格、ああ、それも主にあれよね、どれだけあんたに尽くせるか、とか。それくらいだったかしら?」

「あら、よく分かってるじゃない」

「そりゃあ長いこと付き合ってれば、嫌でもね」

「‥‥で、あたしは一体いつになれば解放してもらえるのかしら、ルッスーリア」

「‥‥さあ?一体いつになるのかしらね、」

肩を竦めて、まるで恋人にするかのような柔らかさで触れられれば微かな動揺。息が、詰まる。

「あた、し、林檎で手のひらと服がべたべたなんだけど」

「あらそう、大変ね」

「あんたの服だって大変よ」

「ええ、確かにそうね。大変だわ」

「だから、もう、離してちょうだい」

「‥あら、離すって、何のこと?」

とぼけた調子の返答に、くらりと眩暈。
あたしは水っぽい林檎の匂いを嗅ぎながら、ふわふわと心地よくなってゆく奇妙な感覚にため息を覚える。そうして、離してくれない腕だとか低めの体温だとか、やけにとろけるように響く声がなんだかひどく近くにあるせいで、心臓が馬鹿みたいに大きな音で満たされる。

「‥‥あのね。嫌んなちゃう、は、こっちの台詞よ」

ぽつんと呟くあたしに、男はただ笑って、そう、とだけ返した。
じんわり、熱くなる瞼が密かに震える意味を考えたなら、だって答えはひとつだけ。

「‥あんたなんか、死んじゃえばよかったのよ。‥バカ、」

今更になって滲み始める涙がやけに眼球にしみて、ちくんちくんとどこかが痛い。そうね、ごめんね。軽くこめかみに落とされたキスに混ぜて言われたら、なぜだか余計に泣けてきてしまう自分に腹が立って、唇を噛む。だから絶対に一度だって、言ったりしてはやらないのだ。死んだりしなくて本当によかったなどとは一生、絶対に、口にしてなんかやらないの。ほんのちょっぴりだけの血の味を飲み込みながらあたしはひっそりとそう心に決めて、薬品と林檎のちぐはぐな匂いを胸に深く吸い込み、息をつく。そうして、もう仕方ないから、と理由になっているようでまるでなっていないこと言って、仕方なく。そう、それはもうただただ仕方なしに黙って、仕方なく、この上ないくらにい仕方なしに、優しく抱き締められてやることにしてやった。(なんて、くだらない見栄だとかプライドなんかを全部ぜんぶ取り除いたら、あたしの中には結局、認められないでいる感情しか残らないんだろうけどね、)


























愛してる、なんて

認めたくなかった




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