閉めたままの窓はそれでも蝉の鳴き声をさっきからずっと部屋の中へまでみんみんと煩く響かせて、暑さに額や首や背中、体のあちこちに汗が滲んでゆくのがよくわかった。
クーラーなんて気の効いたものがない山本の部屋は頭がおかしくなりそうなくらいの暑さでもってあたしを苦しめる。
もうしわけ程度に手渡されたうちわをはたはた扇ぎ、あたしは白いワークブックと参考書を指差した。
タオルをかけて正座する山本は、機嫌を伺うようにちらちらこっちを見てへらりと笑う。
(ため息しか、出ない。)


「‥あのさ、なにこれ」

「なにってそりゃあ、宿題、だろ」

「へえ。ずいぶんと真っ白ね」

「うはは、全然やってねーから」

「夏休みあと少しだけど」

「手伝ってくれたらなんとかなる気がするなー」

「は、いやなんだけど」

「ええっ、いやなんだけどってゆわれるのはいやなんだけど」

「いやなんだけどってゆわれるのはいやなんだけどってゆわれてもいやなんだけど‥‥てゆうか、暑い」

「そう?」

「いや、もうホント暑くてしねるくらい」

「ははは、こんなくらいでしなねーって。こないだなんかもっと暑かったんだぜ?」

「‥でもせめて扇風機とかないわけ?」

「あーうん、あったけど壊れた」

「なんで」

「一昨日ツナたち来ててさあ、」

「‥あ、なんとなくわかったから説明しなくても、いい」

「うは、まじで?」

「だってどうせ獄寺あたりがばかやって暴れたか、牛柄のガキがなんかやったかとかだろーし」

「おお、うん、だいたい当たってる」

「いつも見てりゃそれくらいわかんのよ」

「え‥何、黒川そんなにいつもおれのこと見てくれてたの?おれすげー感動‥!」

「‥あんたたち煩くて目立つから嫌でもわかるだけだし」

「えー‥なんだ、つまんねーの」

「つまんないとかどうでもいいから、ほらさっさと宿題に取りかかりな。あとついでにやっぱ暑い」

「あーあー‥、これだからクーラー中毒者はいけねーよ」

「‥あんた、あんまり調子に乗ってると手伝ってあげないから」

「え、うっわ!うそうそごめん許して黒川、冷たい麦茶サービスするから!」

「よし、なら許す」


腕組みをして重々しくあたしが頷くと、山本がぱっと笑顔になって立ち上がった。
すぐに取ってくるからと一言残して山本が部屋を出ていくと、ばたばた階段をおりる音がした後はまるで静かになってしまう。
はたりはたり、扇ぐうちわの風は温い。
みんみん、ラストスパートをかけるように盛大な蝉の合唱はずっとずっと煩いまま、かすれた声で叫んでいる。
うちわの風は温くて、体の中の温度は下がるどころか上昇しつづけている気がした。
夏がくるたび蝉の命が短いのは変わるはずもない事柄だけれど、必死すぎる言葉が途切れ途切れに消えてゆくのがひどく切なくさせてしまうから、あたしはこの季節は暑いことも相まって特に嫌いだった。
じじじ、みんみん、もしも人の命がこれくらいはかなくって、懸命にひたすら愛を叫ぶ生だったなら、あたしはどんなふうになっていたろうか。
こめかみから頬を伝って顎へ流れ落ちた汗がぱた、と開いたノートの上で透明の点になる。
蝉の声、鳴き声。
それはぜんぶ、すべてが狂いそうな愛の叫び。
ただそばにある夏の暑さ。

(だけど終わりは、もうすぐそこ)


「お待たせ、黒川」


がちゃりとドアを鳴らして現われた山本の手には氷いっぱいのグラスに注いだ麦茶、二人分。
目の前に置かれたそれを半分あたりまでごくごく飲んで汗を拭うと、山本はおかしそうに笑いながらシャープペンシルを手に取った。
すっと一時的に涼しくなって、でもすぐまた暑くなる。


「黒川せんせ、授業、はじめてもらってもいーですか?」

「‥山本くん、じゃあ、参考書の18ページを開いて」

「うはっ、黒川、ノってくれるんだ」

「あんたがあんまりにも可哀相だと思ったから、ね」

「そっか、うはは。ありがと黒川。ホント、だいすき」

「わかったから、早く宿題やりはじめな」

「はーい、黒川せんせ」


山本はへらへら笑いながら、あたしが指定した参考書のページを探しはじめた。
煩い蝉の、愛の御言葉。

(すきだよすき、あいしてる)
(だからすきになってねあいしてちょうだいね、こっちだけを、みていてね)

(あいして、いるから)

反芻される言葉の数をかぞえながら、あたしは麦茶に手を伸ばす。
ゆっくりと飲み干しながら見つめる先で、参考書の文字を追う山本の瞳は、長い睫毛ですこし薄く影ができていた。
鼻の頭に浮かぶ汗が落ちてゆく。
蝉の鳴き声、泣き声。
なんだか夏が終わる頃にはもしかするとこいつまで、ころりと息を引き取ったりしていそうな気がするなあと思いあたしは笑う。


「山本くん、落書きは禁止です」

「えー‥だめですか?おれ、黒川せんせにラブレター書いてて、」

「き、ん、し、です」

「‥はあーい」


しぶしぶ消しゴムで擦られて消える文字とハートに、苦笑いがもれる。

(そんなに愛を伝えてくれなくたって十分すぎるくらいだから、さ)

(ほどほどに、してちょうだいよ)

(あんたがもし一週間かそこらでしんじゃったりしたらどうにもあたし、けっこう、いやかなり、悲しくなっちゃうだろうから)

(だから、ね、)

うちわを扇いで、真っ白いワークブックに走りだすペン先をあたしは見つめる。
人工的な風は温くて、蝉がうるさい。
叫んで鳴いて、愛を歌う。
夏はもうすぐ終わるし永遠なんてどこにもない。

(でも、あたしたちまだ夏の中でもしつこく生きているんだからね、)

(まあ、いっか、もうなんでも)

(て、ことに、しておこう)

山本が使っていないシャープペンシルでするするとワークブックの隅に文字を書き記す。
滑らかに動きだしていた山本の手はぴたりと停止して、何が起きているのかわからないとゆうような顔をしていた。


「‥え、くろか、わ?」

「さ、山本くん、次のページに行きましょうか」


間抜けな顔ににっこり笑って、あたしは勝手にページを変える。
するとじわじわ顔を赤くしだした山本は、いきなりあーとかうーとか、何事かを呻きながら後ろに倒れこんで、手足をばたつかせたり床を叩いたりうんうん呻いたり、おかしな行動をとりはじめた。
なんだか気持ち悪くて思わず力の限りに頭を殴ったら、山本は弛みきった顔をゆるゆる持ち上げて、涙目でにへらと笑って見せる。


「どーしよ、すげーうれしい‥」

「何が」

「黒川せんせの、お返事が」

「‥あら、そ。よかったわね」

「うは、ホント、よかった。なんか泣けてきちゃった」

「泣かなくていいから、ほら宿題」

「あー‥うん、黒川、すき」

「はいはい、それさっき書いてるの見たし、あたしもよってさっき返事書いてあげたでしょ。ほら体起こして、ペン持って、はい、問題といてきなさい」

「‥‥‥せんせ、情緒とかないんですか」

「ない」

「‥黒川のばか、すき、あほ、すき、すき、すき」

「わ、か、っ、た、か、ら。早く、やろうね、山本、くん?」

「‥‥‥‥‥はーい」


俯く山本にあたしは照れ隠しにもならない作り笑いで耳を澄ます。
みんみん、じいじい、止まない蝉の声、声、こえ。
これに比べればなんてことない、真似でもなんでもない言葉でしかないけれど、心臓から押し出される感情に気持ちを任せてしまうと、なんだかいっそこのまま夏と一緒にしんだって、いいような気がして。

(すきだよ、やまもと)

そんな言葉を胸に秘めて、あたしはひっそり小さく笑う。
そうしていつのまにか暑かったことなどすっかり忘れてしまいながら、間違った答えを書き出す山本の手を、問答無用ではたき落とした。




















な つ



お わ り



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