かえし忘れた本を持ってひっそりと侵入した図書館には、
利用者どころか係の人間一人すらいないようだった。
さっきからがんがんとたのしく響くずつうの手拍子が、頭の中から漏れだしてもおかしくないような静けさだ。
ああ、どうしよう。
いい加減に借りっぱなしになっている本を返さなければ夏休みは雑用係に決定だ、なんて。
全く、さいあく極まりない。
それにしても、入り口のすぐ横のカウンターはがらんとしているし、
今日はもうこのまま返却の対応をする人間は誰も来ないのではないだろうか。
けれど、図書委員がカウンターに居なければ返却をあきらめなければならない、という選択などあたしの頭には存在しない。
なのであたしはたいした葛藤をすることもなく、侵入領域をそちらにまで広げると堂々と図書カードをとりだした。
そして半年以上もまえの返却期限を苦々しく見つめて、こんなとき、すこしの良心を持ち合わせていたりするとめんどうなのだろうけれど、自分にそんなものがなくてつくづくよかったと考える。
さあ、判を押して利用者名簿に名前を書かなくては担任からの返却の催促がやまないことを知っているから、
こんな用はさっさと済ませておさらばしてやろう。
誰が夏休みを教師の下僕としてすごしてやるものか、
と、思いはしたのだが。
あたしはこんなカウンターの中に名前のついていないたくさんの引き出しがあることなんてまるで知らなかったから、
図書カードを片手ににぎったままピシリと一瞬かたまってしまった。
あいうえおの並びか、なんなのか、適当に?
あ、わからない。
だが引き出しの数は馬鹿みたいにあって、
ずつうがひどくなって、がんがんがんがん、と音をたてて広がる。
しかしこの中から判をさがしださなくてはあたしの平穏が。この夏休みの平穏と自由、が。
(、な、何がなんでも探しだす!)
しばらく放心してから、仕方なく端から順に開けていくけれど、がんがんがんがん。
響くずつうの手拍子が頭の中から漏れだしてもおかしくないような静けさに、木の引き出しが出すかたんことんとゆう音が増えただけで、あって。
(ああもう、ちょっと、どこにあるの)
かたかたがた、こん。
(あたしはあたまがいたいのよ)
かたんかたこと。
(さっさと出て、こい)
ことんかたかた、かた。
(あたま、が、いたい、)
「あ、れ、なにしてんの、くろかわ」
と、頭のうえからきこえたこえにびっくりして、頭をおさえながら引き出しを開け閉めしていたあたしは思わずがたんと横にたててあったパイプ椅子に肩をぶつけた。そしたら、野球帽とユニホームの山本が、うはは、と笑ってから、
へいき?なんて手を出してきて、がんがんがん、あたしはあたまがとてもいたかった。
だからか、いつもなら取らないその手を取って立ち上がったあたしは、
山本の手が大きくて男の子のものであることをあいまいに感じながらありがとうとお礼まで言ってしまっていた。
山本が顎のあたりに泥をつけたまま、歯を見せて笑う。
「マジであせった、幽霊でもいんのかとおもった」
「いるわけないでしょそんなもん」
「いやでも誰もいないのに音とかしてたら、気持ちわりぃだろ」
「まあ、ね」
「つかくろかわさ、何やってたの、そんなとこで」
「あー‥うん、判子」
「はんこ?」
「そう、判子、さがしてたの」
「なんで」
「なんでって‥カードに判押さなきゃだめじゃん」
「ふうん、だめなんだ」
「‥何、あんた知らなかったの?」
「うはは、おれ図書室に用事ないからなー」
「‥ああそうだったわね、あんたばかだしね」
「え、そのくくりはひどいだろ!」
くちびるを尖らせる山本を半眼で見つめて無視したあたしは、頭の痛みとたたかいながらまた引き出しをがたかた言わせるのを再開した。
外からカウンターにもたれて中をのぞきこんでいるんだろう山本は、物音の原因が幽霊ではなくあたしだとわかってすっきりしたはずなのに、どうしてかそこから動く様子がない。
気になってちらりと見上げたら、なんだか微笑ましいものでも見ているみたいな顔をしていて、
(うわ、なんか、)
(むかつく!)
「あのさ、なに?」
「んーいや、なんだろ」
「なに」
「え、判子ってさ、どんなやつ?」
「‥丸い形してたと、おもうけど」
「それって、黒インク?」
「そう、」
「そんでもしかして、済、って漢字の、やつだったりする?」
「‥そう、」
ずつうがひどくなってがんがんがんがん。音をたてる、広がる。
(いやな、よかん)
「それってさー‥これなん、じゃねぇかなぁ?」
山本が何かを手のなかから出した、もの。
(う、)
(よかん、てきちゅう)
そう、そうだ。まさしくこれは頭痛に苛まれながらさがしていた、マイスウィート、平穏な学園生活への鍵。
「は、なんであんたがもってんのよ」
「やー、判子、ってゆってたしそこに転がってたからこれかなーとおもって」
「んじゃさっさと言いなさいよホントばかなんじゃないの」
「うるせーばかってゆったやつがばかなんだぜ、くろかわ、」
「うん、もういいからわたして」
「えー、どーしよっかな」
「なぐろうか?グーで」
「や、ううん、いいです、はいどうぞ」
「あらどうも」
なかば引ったくるようにうけとった念願の判子を、押して。ミッションコンプリート、これで平和は保たれた。ありがとう判子、ありがとう山本、(ありがと、う、)
(あ、れ?山本、って)
(う、)
(あたま、いた、い)
「ん、え、くろかわ、ちょ、なんか」
「、たい」
「え?きこえねぇって、」
「いた、い」
「どこが、え、なに、」
「あ た、」
「うん?」
「 まが」
「あた、ま、」
(学園生活は無事保たれた、この判子ひとつでそれがかなうなんてすごいわ、いっそのこと人間関係も何もかもこれで片付いてしまえばいいのにああでもこんなたかが判子にそんな力あるわけないのよねわかってるわかってる、わかってるわ、ありがとう判子、ありがとう山本、ありがと、う、)
(あ、れ?)
(やま、もと?)
「‥あ、おきた」
「‥‥‥‥やま、もと」
「うん」
「‥え、あた、し、」
「ん、なんか、疲れて頭痛で倒れた、ってきいたけど‥まだあたま、痛い?」
「うん、あ、いや、ううん、いたく、ないけど」
「そっか。よかった」
「‥なんか」
「ん?」
「なつかしい、夢、みた」
「ゆめ、って、どんな?」
「えっと中学のときの、ほら、図書室で」
「ああ、くろかわが頭痛でダウンしたあれか」
山本が、笑う。あの時とあまりかわらないふうに、笑って、あたしの額に手をおいた。大きい、あたたかい。
「あん時はおれすげぇ焦ったよ、くろかわ熱あったしさ」
「そうらしいね。あたしはあんまり、おぼえてないけど」
「うわ、ほんとかよ。おれ必死だったのに」
「は?何に必死だったのよ」
「ん?お姫さま抱っこ」
「‥お、おひめさまだっこ‥」
「そう。けっこう、難しいよな、あれ」
「いや、したことないからわかんないって」
「、ははっ、確かにそうだよな、わかんねぇよなー」
額を撫でる、手の、大きさ。あたたかさ。笑うのは、今の山本。
(やま、もと)
(たけし、)
「なぁ、まだ、ちょっと熱あんじゃねーの、これ」
「あたまはもういたくないけど、」
「こらまだ寝てろって、またいたくなったら余計だめだろ」
「ばか?」
「それおれのこと?」
「ちがくて、あたし」
「くろかわ?ばか、‥ばか、うーん、ばかではないとおもうよ」
「、そう」
押し戻されたベッドの上は夢の中つづきに出てきたはずの保健室のベッドには似ても似つかないものだったのに、
なんだか。
なつかしい。
小さな子供にするように髪を撫でられると、なんだかすこし恥ずかしいような気持ちになる。
けれど、こんな時はちょっとだけ勇気をだして甘えてしまえば、微睡みはひどく心地よいものに変化するのだ。
(おおきな手、)
(このあたたかさ)
あの時は山本がこうやって触れてくることなんか、ひとつも一回もありはしなかったけれど。
昔を思い起こさせるぬくもりは、あの時差し伸べられたてのひらとまるで同じものだった。
記憶になくても、体が覚えているのかもしれない。
大きなその温度の中にある、やさしさとか安心感を。
あの日の、やさしい手の中の、あの夢みたいなきもちを。
あたしは、わすれていないのかもしれない。
そ う で あ れ
、 と 願 う よ