今、あたしは非常に困っていた。
「‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥」
――ああ、なんて痛い沈黙!
そう、今あたしは、とても、かなり、めちゃくちゃ、困ってしまっているのである。
(これ、現在進行形、)
だって、目の前にはどうしてか、いきなりノックも無しに部屋に入って来たかと思ったら、持ち込んだらしい椅子をデスクの前へ放り投げてそこに腰掛け、あたしの机の上へ足をどかりと乗せて腕を組み、何事もなかったかのように当たり前にそこに居座ることを決め込んだらしい上司様がお一人ばかりいらっしゃるのだ。
全く、この状況に陥ってもうどれくらいの時間が経っているのだろうか。
最初はまるで状況が理解出来ず、(まあ、今も分かっちゃいないけれど、)いきなりなんなのとかここはあんたの部屋じゃないんだからとかいやてゆうか足どけてよ足、とか、いろいろ、あたしも騒いではいたものの無反応で、とりあえず、混乱しながらも足をどかしてやろうと目の前に突き出された黒いブーツの底を全力で押してみたり持ち上げようとしたりして、まあ、結句撃沈したわけなのだけど。
とにかく、どれだけ力を入れようともびくともしないソレ(てゆうか、こいつ目ぇ瞑ってまるで表情変えなかったけど絶対わざと力入れて抵抗してた!)に、あたしは脱力して半眼になりながら整った顔を睨みつけ、上司の足をどかせぬまま仕方なく仕事を再開し――それから、少しして感じ始めたのはこの視線なのだった。
気になって、上げられた報告書や経理関連の書類に目を通していた瞳を前に向ければ、数秒目が合うもののそれからゆっくり目は閉じられ、そのままあたしの視線は華麗にスルー。
意図が読み取れなくて、首を傾げつつもあたしは再び下を向いてペンを走らせ始めたのだけれど、また少しすると視線を感じて、その度にもう何度もこんな同じようなことを繰り返している。
それで、そっちがそのつもりならもう気になっても顔を上げてなどやるものかと心に決めて、多分に一時間は経つのだと思うけれど、その間ひたすら感じていた視線にさすがのあたしもそろそろ我慢の限界を迎えようとしていた。
とゆうか、この男何かあたしに言いたいことでもあるのだろうか。
(ああもう、本当に意味分かんない、)
視線が突き刺さるとはよく言ったもので、嫌でも気付いてしまうほどの熱視線であたしの体は穴が開いてしまいそうだった。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あー‥‥‥‥、その、なんてゆうか‥‥うん‥‥さっきから、一体なんなのかしらボス。‥ちょっと、いや、かなり仕事に集中しづらいんですけれど、」
もう、口にするのも、書き留めるのにも随分と慣れてしまったイタリア語でため息混じりにそう言ってやる。
このまま、無視し続けた方が自分のためであるような気はしたけれど、暫く額に手を当てて、気付かないふりをしながらじりじりと気まずい空気を存分に味わってしまえば、そんな意志も崩れ去るというものだ。
上司様は俯いているせいで顔にかかる髪が鬱陶しいのか、指で髪を耳に掛けながらあたしをじとりと睨むと、ゆるり、また閉じるのかと思われたソレは予想外に少しだけ柔らかく細められたものだから、あたしは瞠目した。
(、え、あれ)
(なんか、今、)
(もしかして、)
(わらっ、た?)
とく、り。
驚きのあまり小さく鳴った心臓に反して、体も思考もフリーズする。
何か、大きな変化を見つけたわけではなく、むしろ、本当に見逃してしまいそうなくらいに些細な表情の微動だったのに、何故だかまるでいつもと違うと気付いてしまった。
それはどこか穏やかで、ゆらゆらと、燃え盛るばかりの炎が本当にその中に宿るのかと思ってしまうほどに静かな赤で、ゆら、り。
「‥‥っ、!!?」
ふっと、飛んでいたらしい意識が落ちた影に違和感を感じて戻って来た瞬間、あたしは目を見開いて、思わず後ろへ身を引いた。
我に返ったその瞬間、いつもなら憤怒を思わせる赤い瞳が、音もなく静かにピントがずれるほど近くにまで接近していたのである。
そして、今その瞳の持ち主はこちらへ身を乗り出した体勢で、椅子からずり落ちそうな格好で唖然としているあたしをなんだか面白くなさそうな顔でじっと見下ろしていた。
「‥‥‥え、は?‥‥い、今、何して‥‥」
「‥‥‥‥‥チッ、」
「いや、ちょっと、舌打ちされても意味が分からないんですけど」
「‥ハッ、知るか。自分で考えろドカス」
「は‥?え、自分で考えろって‥‥‥いや、いやいやそんなもん分かるわきゃないでしょーがドカス上司が」
先程の、なんだかいつもと違うような気のする空気に呑まれていたらしいあたしは、相も変わらぬ上司様の発言でやっといつもの調子を取り戻し、体を起こす勢いでぐっと身を乗り出しながら片眉を上げてメンチを切る。
上司に向かって不適切な口調態度になっていようが気にしない、いや、してなどやるものか。
が、同じようにあたしを睨み返していた上司様は数秒してからふっと、何かを思いついたような顔になり、それから珍しく妙に楽しげな表情をして再び目を細めた。
赤い瞳には、また意表を突かれたあたしの顔が、不思議とはっきり映っている。
「‥仕方ねぇな、じゃあ、教えてやるよ」
「‥え‥‥んっ、んむ、んんっ!?!」
ピントの合わない位置にまで接近した、目の前の男によって塞がれた唇は何かを言い掛けて塞がれた。
驚きのあまり数秒固まってしまったが、慌てあたしの顔を引き寄せた硬いてのひらをひっぺがし、あたしは思い切り体を後ろへのけぞらせる。
「‥っな、え、はあ!!?」
一気に、熱くなった顔はほんのりと染まるどころか、きっと馬鹿みたいに赤くなっているはずだ。
言葉が出てこなくて必死に口をはくはくと動かしてみるけれど、それは声にもならずに消えていく。
「は、わかったかカス。そういうことだ」
凍結状態のあたしの隙を突いて、にやりと笑う上司はその顔に今まで見たこともないくらいの愉悦を滲ませていた。
だけど、それは不思議とどこか柔らかい、笑み、
「っ、」
あ、あ。
熱い顔がますます熱くなるのを感じながら、唇を噛んで顔を見られないように俯く。
ばか、子供じゃあるまいし、キスの一つや二つで動揺するな自分。
(けど、反則だ、)
あんな顔、されたら。
どれだけ罵ろうが喚こうが、その場しのぎの言葉たちなんてきっと口に出した途端に意味を失ってしまうに決まってる。
それに、そういうことって、一体どういう?
まさか?
いや、まさかまさか、そんな、まさか、だって、そんなまさか、馬鹿げてる。
ゆっくりと深呼吸をして冷静になろうと努める間も、視線を感じてはいたけれどそんなものを気にしている場合ではなかった。
だから、まさか、そんな。
もしも今顔をあげていたなら、あたしは更に言葉を失ってしまうような状況に陥っていただなんて、彼がただ単純に、けれどおかしそうに小さく微笑んであたしを見つめていたなんて、そんな、非常事態と言っても過言ではない表情を浮かべていた、なんて、あたしは気付くことはなかったのである。
それが吉と出るか凶と出るか、この時あたしは知るよしもなかったが、
吹き荒れる脳内嵐に乱された思考が再び起動するには、まだ暫くの時間がかかりそうであった。
不 意 打 ち
の
先 手