小走りに廊下に響く、細く伸び上がるようなヒール音。
この長い廊下を歩いている自分以外のそれは、カツリ、カツリ、と徐々に大きくなりながら急ぎ足でこちらへと向かって来ているようだった。
それが誰の物であるかなど、聞き慣れてしまったせいでほんの一瞬の思考を止めるまでもなく特定できるようになっている辺り、慣らされてしまったと言うのが正しいのか、否か。
考えながら、ジョーリィはじわりと皮肉たらしい笑みを口元に浮かべた。
足を止めようとは思わない頭に反して、歩く速度は無意識にゆっくりと落ちていく。
「ジョーリィ、」
すぐ、後ろにまで追いついたらしいフェリチータの声がして、ジョーリィは渋々、深い溜め息と共に足を止めた。
可能な限り不機嫌な声になるよう意識しながら口を開く。
「‥なにかな?お嬢様」
「‥‥夕食、何も食べないの?」
「ああ。必要ない」
「‥‥‥‥‥分かった、」
背中を向けたままの会話は、そこで途切れた。
けれど彼女が動き出す気配はない。
一体、何のつもりなのだろうか。
少し間をあけたような返事にも引っ掛かりを覚えて、ジョーリィは眉間に皺を寄せながら静かに振り向いた。
そうして、俯くフェリチータのつむじから顔、肩、腕、手までを流れ、向けた己の視線の先はその手の平の上で静かに留まることとなる。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥、ビスコッティ?」
目に映った、ちょうどいい焼き色をつけたそれの名称。
少々意表を突かれた響きで落ちた呟きに、はっと顔を上げたフェリチータは微かに目を伏せて長い睫毛を震わせた。
「‥‥今日、ビスコッティを作ったんだけど‥お腹が空くんじゃないかと思って、」
そう、気まずげな表情で呟くと、フェリチータはじり、と一歩後ろへ後退った。
(‥‥なんだ?)
彼女の視線は、ジョーリィの足元へと向けられている。
訝しげに思いその先を辿ると、自分の足が一歩前に出ていて、さてこれは一体いつ動いたものなのかと妙な心地に包まれた。
首を傾げて、更にもう一歩踏み出してみる。
すると、じりり、同じくフェリチータも更に後ろへ下がり、互いの距離は一定の間隔を保ったままになる。
「‥‥‥お嬢様。何故逃げるのかな?」
「、だって、ジョーリィが近づくから」
「‥‥‥‥近づかなければ取れないだろう」
「‥‥でも、さっき何も食べないって言った、」
少しだけ眉を下げて、フェリチータが呟く。
それに愉快なような、しかしどこか苛立つような感情も覚えて、ジョーリィは意識的に小さく口の端を持ち上げた。
「‥ああ、そうだな。確かに言った。だが、たった今気が変わったよ」
「‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
無言のままじっと見つめていると、見つめ返す彼女も引くことを知らないからか、自然と睨み合う形で沈黙が落ちる。
「‥‥‥‥お嬢様。私のために用意したのなら、それは私のモノだろう?」
「、まだ、そうじゃない」
白い小皿に乗せられた焼き菓子は、拗ねた口調の後、向けられたジョーリィの視線から隠すようにフェリチータの背中の後ろへと回されてしまう。
(‥まったく、強情なのは一体誰に似たのやら)
短息して、頭の中で一人ぼんやりと呟くが、面倒だと思うよりも先にこんな言動や行動をどうにも好ましく感じてしまっている自分が居て、口元には苦い笑みがじわりと滲む。
「‥そうか。君がそれを渡さないと言うのなら、私には他に方法がないらしい」
「‥‥ジョーリィ?」
大きく一歩踏み出して、訝しむフェリチータが逃げるよりも速く距離を詰めると、美しい緑の瞳が大きく見開かれる。
ああ、このまま身動きできないよう抱きすくめて、一緒に研究室まで連れ帰ってしまおうか。
わざとらしく頭の中で考えながら手を伸ばすと、己の能力でそれを察したのか、フェリチータは慌てジョーリィの伸ばした手に小皿を押しつけて、これでもかというほどに距離を取った。
「っ、あ、いい、ビスコッティだけ持って行って、」
じわじわと赤く染まっていく目元や頬。
その全てが彼女の心中を如実に現しているようで、ジョーリィの喉からは堪えられない笑いがクツリと漏れた。
「‥おやおや、それは何とも残念だ。しかし、それが他でもないお嬢様の願いなら‥‥従順な私は、このビスコッティだけを素直にいただいて行くことにしよう」
ゆっくり、ゆっくりと、揶揄るようにからかいを含んでジョーリィが言う。
すると、その意図するところに気づいたらしいフェリチータはカッと更に顔を赤くして眉間に皺を寄せた。
「っ、ジョーリィ!」
「‥なんだ?前言撤回をして、一緒に研究室まで連れて行って欲しいとでも、」
「言うわけがない!」
最後まで言わせないとばかりに言葉を被せて、フェリチータはきっぱりと言い放つ。
到底、目上の者に対する態度などではない。
しかし、そのおかしさに喉を鳴らしながらジョーリィはゆるりと口を開くと、むっつりとした表情で怒るフェリチータを鼻で笑って、まあ、私は別に君が居ようが居まいが、邪魔されずに実験が出来るならどちらでも構わないがね、と神経を逆撫でるべく口の端を持ち上げた。
そして案の定、それを見たフェリチータは更に眉を吊り上げる。
「っ、ジョーリィ、やっぱり返して!」
「‥お嬢様、自分の言ったことには責任を持つべきだろう?」
「なら、ジョーリィも責任を持つべき。‥私も、『たった今気が変わった』の」
上手くない口真似をして、むっとした顔のフェリチータはジョーリィの台詞を嫌味たらしくなぞって言う。
このまま再び睨み合いが始まりそうな勢いだ。
対するジョーリィは、薄い笑みを浮かべたままかぶりを振って肩を竦める。
「‥やれやれ。お嬢様も成長した、と評するべきか?」
ため息混じりの、呆れたような低い声。
それはどこか皮肉さえ含んでいそうな声音だったが、負けじとフェリチータは口をぎゅっとへの字に曲げる。
次はどんな言葉が飛び出すのかと、挑むような表情だ。
ジョーリィは薄い唇を歪めて、煽るように酷薄な印象の笑みを深めた。
しかし、そのサングラスの奥に隠された瞳が密かにひどく柔らかく、そして甘やかに細められていたことを、フェリチータは知らない。
愛してるの"あ"の段階
title:にやり
20121011