「‥ん?あららん?もっしかしてお嬢さんてば部活見学的な感じの子?」
「っ!?」

美術室のしんとした入り口、その扉に手をかけるか否かをどきどきと迷っていると、いきなり後ろから声をかけられて私はビクリと肩を跳ねさせた。振り向いた先には人懐こそうな顔の男子生徒が立っていて、私が目を瞬かせると頭を掻きながら苦笑する。

「あー‥、なんかごめんな?別に脅かすつもりとかなかったんだけど、新入生の子かなって思って」
「えっと、あの‥?」
「ん。ああ、じゃなくて、あー、そうだな、とりあえずおれ、不審者とかじゃないですからネ?てわけでおれは三年の目野と申す者ですナイスチューミーチュー、お隣の暗室使ってるのでどーぞよろしくマドモアゼル?」
「‥え、あ、はい‥?」
「で、なんつーかおれが言いたかったのはだね。ズバリ君、美術部入部希望者ですよねってことなわけでして、」
「‥はあ‥?」
「まあ、つまり、鍵かかってますよというか、実は今日って美術部はお休みですよとかいう有益なお知らせをここで高らかにしてみたりとか、ね?」
「‥‥って、え?あれ?今日お休みだったんですか!?」

三年の目野と申す者、とよくわからない不思議な言い回しで名乗ったその人が淀みなく話すのをぽかんとしながら聞いていると、とても大事なことを最後に聞かされたことに気づき、私は思わず声を上げていた。新しい環境、新しい人間関係、それらに付随する諸々にまだ少しも慣れない心臓が緊張でひどく煩かったのに、それがとても馬鹿らしく思えてきてしまう。意気込んでここまで来たというのに、全く意味がなかったらしい。くたり、包まれる妙な脱力感。

「な、んだ‥休みって、そっか‥‥」
「うん?もしかしてそんなに見学楽しみだった?」
「や、別にそういうわけでも‥」
「んぇー‥?なんだそうなの?あ。でもさぁでもさぁ、中、入ってみたくない?」
「、え?」

にやりと笑った先輩は、鼻歌混じりに自分の前髪を留めているピンの一つを外すと、美術室の扉の鍵穴に差し込みカチャカチャと弄りはじめる。かちん。すると何かが外れるような音がして、先輩はこちらに向きながら恭しい仕草で扉を開けて一礼した。

「さあ、どーぞお嬢サマ?なんつって」
「、え、あの、え‥‥?え!?か、鍵、かかってたんですよね!?今のってヘアピンで開けたんですか!?」
「ん?あー、ここの扉の鍵ってちょっと馬鹿になってっから、軽く突いたら結構簡単にオープンザドアしちゃうのよねー」

うあははは、なんて笑いながらそう言う先輩は、「なんか鍵師みたいでちょっとすごいっしょ?」とヘアピンを指先でつまみ上げて目を細める。そうして背中を向けたかと思うと、慣れた足取りで美術室へと入っていってしまった。ふわり、開いた入り口の向こう側から、重たい油絵の具の鼻につく、だけどなんだか少しだけ甘いような気のする匂いが優しく鼻先を擽る。どうしよう。勝手に入ってはいけないんじゃないかという真面目な思考と、どんな空間なのだろうという好奇心が頭の中をぐるぐると回って、私はその場から動けなくなってしまう。

「あれ?マドモアゼル入んないの?」
「だ、だって‥勝手に入っていいんですか‥?」
「んー‥‥入ったらダメとか言われてないし、別にいんじゃね?あ、てかさぁマドモアゼル、それよか名前なんてゆーの?」
「えっと、日比野、です‥」
「ん。マドモアゼル日比野ねー」
「っ、な、なんかそれ、芸名みたい‥」
「うん?じゃあ、日比野マドモアゼル?」
「って先輩、それじゃ外人みたいですよ、」
「えー?なら‥‥‥日比野サン?」
「ふ、は。なんでちょっと詰まらなさそうに言うんですか?」

くるくる変わる先輩の表情と声のトーンが面白くて、笑いながら突っ込んでしまう。
そのせいか、おいでおいでと笑いながら先輩が手招きすると自然に足が動いてしまって、扉から少しだけ中を覗き込んでしまった。
机と、背中のない木製の椅子、書きかけのキャンバス、壁ぎわに並ぶ石像、さっきよりも強く薫る画材の匂い。

「‥そんで、マドモアゼル日比野は美術部に入るのはもう本決まりなんでございますの?」
「先輩、マドモアゼルじゃなくてただの日比野です、よ?」
「おぅふ‥日比野サンてば意外とそこら辺厳しい感じ?でも残念!そんな些細な抵抗に目野先輩は簡単にめげたりしないので、そこら辺しっかりと覚えておくように!」
「ええ?なんですかそれ、」
「うん?日比野サンが美術部に入ったら、時々おれとも顔合わすかもしんないからヨロシクしてねってことデスヨ?」

扉に背中を預けながら、ニカリと笑った先輩はポケットから小さな黒い取り出すと、手の中でくるくると回して遊びはじめる。

「‥‥?なんですか、それ」
「え?ああ、これ?フィルムだよフィルムー」
「フィルム‥?」
「そうそ、フィルム。あ、写真のね。てか実はコレ現像しようかと思っておれ今日ここに来たからさぁ、あー、なんかアレだね、日比野サンとはなんか、縁があるのかもしんないね?」
「え、どうしてですか?」
「ん?や、写真部って、ほぼ部員居ない上に限りなく活動とかしてないのに近い部でさぁ、おれも不定期にしか暗室とか使ったりしてないんだけど、そしたら日比野サン居たりするじゃん?だから、なんかディスティニってんなあと思って」
「ディ、ディスティニ‥‥?」
「あ、うんうん、ディスティニー。日比野サンてば意味はご存知?」
「えっと、運命‥」
「お、イエス・ザッツライ!てわけでこの出会いは神に定められた運命なわけですよん?」

ウインクして、先輩がおどけた仕草でへらりと笑う。だから私はまた笑ってしまって、なんだかとても、不思議な気分だった。
まだクラスでちゃんとした友達も出来ていないし、馴染めなくて、そのせいでそわそわと落ち着かない日々を送っていたのに、何故だか今こんなにも自然に笑っている。

「運命‥‥運命、かぁ。ホントに、そうだったら素敵ですね、」
「ん?うはは、そだねぇ。てかまあ、むしろこんな偶然の出会いとか、それ以外にありえないっしょ?」

にっ、と歯を見せて先輩が屈託なく笑う。年上なはずなのに、なんだか小さな子供みたいだ。
初対面で、ついさっき知り合ったばかりとは思えないくらいに肩の力が抜けてしまう。

「目野‥先輩、」
「うん?なに、呼んだ?」
「‥ふふ、呼んでみただけですよ?」
「え、ちょっと待って、え、何それなんか気になるんですけど‥!ってか日比野サンなに笑ってんすか!!!」
「ぷ、あはははっ」
「いや、だからあはははじゃなくて!あーもう!答えないとおれ踊っちゃうよ!?日比野サンの周り変な踊りしながらぐるぐる回っちゃうよ!?」
「ええっ、なんですかそれ‥面白そうだからよければぜひお願いします!」
「ちょ、ってウワァアア!?嫌がらせのつもりだったのにお願いされちゃったよウワァアアアア!!」

頭を抱えて叫ぶ先輩、笑う私。
時間があっと言う間に過ぎていく。
それからしばらく先輩といろいろな話をしたけれど、気づくと陽も傾いて、かなりの時間が経っていた。
とっぷりと暗くなりはじめた窓の外に慌て別れを告げて、先輩は暗室へ、私は帰路についたのだけど、一人になって先輩との会話を反芻していると、思わずふっと口元が弛んでしまう。

(賑やかで、ちょっと騒々しくって、なんだかおかしな人だったなぁ、)

気づけば思い出し笑いをしてしまっていて、我に返った私ははっと口を手で押さえた。
だけど、じわじわとまだ笑みを残す口端はすぐに戻りそうにない。
怪しい人になるのを承知で、帰り道を両手で顔の半分を隠しながら急ぐ。

(ああもう‥ぜんぶ先輩のせいだ、)

こんなふうに唇がむずむずしてしまうのも、何故だか浮き足立ったような気分になっているのも、また会って話したいだなんて思ってしまうのも、さっきからすべて先輩のことばかりだった。
だけど、先輩は不定期に活動していると言っていたから、また顔を合わせる機会はなかなか巡って来ないかもしれない。
そう思うと、少し残念で小さな溜め息が零れた。
学年も違って、部活だって違っていて、接点を考えてみても本当に美術室と写真部の暗室が隣同士というくらいしかないのである。
運命、なんて先輩は笑っていたけれど、今日の出会いはきっと偶々だし、そんなドラマチックな出会いなんて現実に起こり得るはずがない。

(でも、本当にそうだったらよかったのにな‥‥)

ぽつり、ぽつりと点り始めた外灯を見上げながら思う。
夕闇にゆらめく思考。
しかし私は、翌朝登校して、学校の玄関でぽかんと口を開けることになる――。

「‥あっれ?おっはよーマドモアゼル!やあっぱこれって‥ディスティニー?」

偶然か、必然か、はちあわせた先輩の驚いた顔、それからゆっくりと向けられたのはニッコリとした笑み。
それを見ながら聞いた先輩の声は、昨日と同じく楽しげで、明るくて。
だけどどこか確信的な響きを残すそれはゆるゆると、まるで暗示でもかけられたかのように笑ってしまう私の耳に、じわり、柔らかく染み込んでいったような気がした。
















愛、お子さま哲学


title:深爪




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