(‥‥あ。)

人気のない図書館に放課後、読み終わった本を返そうと足を運ぶと、一人、本に目を落とす姿を見つけてうれしくなったわたしは、できるだけ静かに彼に近づいて、真ん前の席を陣取った。
わざとらしかっただろうか、座ってから思うのもなんだが、そんなことをぼんやりと考えているわたしの存在に彼は確実に気づいていることだろう。
けれど、わたしがここに居ることにまるで気づいていないような顔で、彼はほんの少しの反応すら見せないままに、本のページを滑らかにめくっている。
ぱらり、乾いた紙の音が耳に届いて、館内はそれきり無音になる。
軽く伏せるようにして彼が本に視線を落としているから、その白い肌には睫毛の影ができていて、なんだか不思議な模様のようにうつくしい。

(きれいだ、)

その、繊細なコントラスト。
無遠慮に見つめている自覚はあったのだけれど、わたしは彼のどこか冷たい印象を持った俯き加減の表情がとてもすきだったので、なんだかにっこりしてしまいそうになる。
わたしを、一瞥すらしてくれない日辻くん。
隣のクラスで、まとも話したことなど一度だってないから、彼はわたしの名前なんかきっと知りもしないだろう。

「‥ねえ、日辻くん。わたし、あなたのことすきだよ、」

ヘッドフォンに遮られて、音楽に邪魔されて、その耳には届かないのだと分かっているからこそ囁くように、でも、はっきりと口にすることができる。
彼は変わらず下を向いたままだけれど、とくとく、いつもよりも速く脈打つわたしの心臓は、少しばかり緊張しているみたいだった。
薄い瞼の奥に隠されたあの瞳に、きっとわたしは映らない。だけれど、意気地なしのわたしは、それでいい。
微笑んで、鞄から返すつもりだった本を取りだして、私は静かに席を立つ。
係の委員がいない時は、返却ボックスに本を入れて、その隣に設置されている返却確認用の用紙欄に名前を記入することになっていた。
だからそれに則って返却を済ませると、少し名残惜しくなりながらもわたしは、長居することなく図書館を後にする。

(‥そういえば、日辻くんは何の本を読んでたんだろう)

膝に乗せるようにして、机の向こう側からほんの少しだけ顔を出していたハードカバーがふっと頭を過ると、なんだかその題名がうずうずと気になってたまらなくなってしまう。
同じ本を読んでみたい、そうすれば、彼が好ましいと思う世界を一瞬でも体感できるはずだから。
なんて。だけどそれはきっと無理な話だ。
図書館の本すべてを読み尽くせば叶うかもしれないけれど、どうにもそれは無謀だし、余りに時間がかかりすぎる。
だけど、もしも彼と同じ本を読めたなら、彼の過ごす時間を一瞬でも、物語を通して共有することが出来るのではないだろうか。
そんなちょっとだけ馬鹿みたいな考えが浮かんだ私は、誤魔化すように苦笑した。

(‥また、会えるといいな、)

校内を出て、まとまらない頭で考える。
嬉しいような、そうでないような足取りの私は、少しばかり複雑な気分を抱えて帰路についていたけれど、
しかし、その頃――図書館に取り残された彼――‥日辻和実は、ぐったりと机に突っ伏しながら、一人ぼそぼそと机に向かって低く呟いていた。

「‥‥‥‥‥‥クッソ。ウォークマンの電源、入れときゃよかった‥‥‥」

ポケットに突っ込んだウォークマンは、口にした通り、ヘッドフォンをつけてはいたものの敢えて電源を入れていなかった。
今日はサボりにサボっていた義務を果たすためにここに居て、声をかけられても聞こえなければ意味がない――そう思ってのウォークマン電源オフという判断に至ったわけなのだが、どうにもそれが仇となったらしい。

(いや、でもまさかいきなり自分の真ん前に座った女子に告白されるとか誰も思わねーし、ってゆうかマジでアレ誰だよ名乗れよ意味わかんねぇんだよクソ、ハゲ、)

ヘッドフォン越しで聞き取りにくかったとは言え、はっきりと耳に届いてしまった破壊力のある台詞。穏やかで、どこか柔らく、じんわりと静かに耳に馴染むような、あの声。

「っ‥!」

思い出すと、むず痒く落ち着かない気分になって、思わずガタンと席を立つ。
そうして、これは仕事だ、そう言い聞かせて、今はもう居ない彼女が向かった返却カウンターへ向かった。
不在返却者リストには日比野小夜、と彼女の名前がぽつり、記されている。

「‥‥、って、は。名前見てもやっぱわかんねぇし、つーか顔すら見てねぇっつーの‥」

頭を掻いて、苦い気分で溜め息を吐き出す。
名前欄の頭には学年とクラスを記入するようになっているが、そこは白紙のままだった。
釈然としないものを残しながら、返却者名の右隣にある、確認者名を記入する欄に自分の名前をのそのそと書き込む。

「‥‥ていうかマジでお前誰なんだよ‥‥」

少し丸い、女子が書いたと分かるような日比野小夜の名前に向かって言ったところで、分かってはいたが返事など返ってこない。
日比野、小夜。
あの時はどうにか平静を保っていたが、おかげで読んでいた本の内容は頭に入って来なかったし、同じページの一文を八回も読む羽目になってしまって、何より日比野小夜が図書館を出ていったあとの妙な疲労感と言ったらなかった。
ゲームでもしてさっさと忘れてしまいたかったが、生憎今日は家にゲーム機を忘れて来たし、閉館までまだあと一時間もある。
けれど、先程まで読んでいた本を読む気にはなれず、一体何で時間を潰すべきかと考えあぐねていると、ふいに返却ボックスの中に返された本に目が留まった。
図書委員は返却された本を元の棚に戻さなければいけないという決まりがあるのだが、無視してそれを手に取りカウンターの中へ移動する。
タイトルも、作者も、目次のページを何とはなしに開いてみても、まるで知らない内容だった。
カウンター内のパイプ椅子に腰掛けて、姿勢悪く1ページ目を開いてみる。

「‥‥‥‥‥‥‥‥、」

そうして、考え込むように何行か真面目に読んでみて、ふとそのストーリーに容易く引き込まれてしまっていることに気づき、すぐに慌てて本を閉じた。
面白い、と感じてしまっている自分が居る。
それに加えて、日比野小夜はファンタジー物が好きらしいという新情報まで入手してしまった。

(あー‥もう、何やってんだオレは‥‥アホか、)

半眼で、口元に苦笑いが滲む。
とはいえ、読み始めてしまうと続きは気になるし、内容は非常に自分好みだし、閉館まで時間はまだまだたっぷりとあるわけで。

(‥‥‥いや、なんつーかこれは‥‥こう‥‥アレだ、なんか‥‥不可抗力だ、不可抗力‥‥‥)

そっと本を開き、読みかけのページに視線をやって、胸の内で自分自身に言い聞かせる。
そう、不可抗力だから、仕方ない。
などとは、正直なところ我ながらどうにも苦しい言い訳ではあったが、徐々にもうどうでもいいと開き直りはじめている自分も居たりして、なんだか頭が痛かった。
しかし、面白いものはやはり単純に面白い。
そう納得して、今日の出来事を急いで記憶の淵から追いやるように、再び本の文字を追う作業に戻ることにする。
古びた紙の匂いは不思議と甘い。
それを深く吸い込んでゆっくりとページを捲ると、日比野小夜は何を思いながらこれを読んだのだろうか、そんなことが頭に浮かんではふっと消えて、閉館までの彼の時間は知らぬ間に、カチン、カチン、一定のリズムを刻みながらいつもよりも早く過ぎていくのだった。















一冊の扉は淡い恋の魔法仕立て






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