すう、と息を吸い込むと、真新しいインクと紙の匂いで肺の中が一杯に満たされる。
(いいにおい、)
新刊コーナーに並ぶ、一冊の美しい青の装丁。この中には、どんな物語が詰まっているんだろう。まだ私の中に存在しない登場人物やストーリーに胸を躍らせながら、手に馴染まないハードカバーの背表紙を指でそっとなぞってみる。

「‥そんなに、その本が好きなの?」
「、え?」

かけられた声に驚いて、慌て後ろを振り向いてみる。そんな、まさか、もしかして。どきりと胸を打つ期待は裏切られることなく、現実として私の瞳に飛び込んでくる。

「ひ、ろせくん、」
「何?」
「あ‥えっと、びっくりしちゃって」
「‥ああ、ごめん。別に驚かせるつもりはなかったんだけど」
「ううん。大丈夫」

言いながら、私は小さく笑って、手の中の本を腕に抱え直した。広瀬くんの表情は、あまり変わらない。けれど、微かに増えた瞬きの回数や仄かに落ちた声のトーンに気づけば、少しも怖いなどと感じることはなかった。初めて会話した時に比べると、とても大きな進歩だと思う。
(なんだか、うれしいな)
私がそのことにこっそりと喜んでいると、ふいに広瀬くんの視線が私の腕の中へ注がれていることに気がつき、私はぼんやりと首を傾げた。

「広瀬くん?」
「‥それって、新刊?」
「あ、うん。そう、新刊。私ね、この先生のお話がすごく好きなの」
「ふうん」
「広瀬くんは、何か読んだことある?」
「全然」
「そ、そっか‥」
「でも、面白いんでしょ?」
「うん。ミステリだけど読みやすいし、面白いよ」
「じゃあ、今度読んでみる」
「え、ええ?でも、広瀬くんの好みに合うかは‥」
「別に大丈夫だよ。日比野が好きな作家なんでしょ?」
「うん‥」
「だったら、問題ないよ。日比野が好きな話なら、僕も好きだろうから」

淡々とした口調でそう言って、広瀬くんは私が抱えているのと同じ青いハードカバーの本を新刊コーナーから一冊手に取る。

「‥シリーズ物?」
「ううん、それは新作の完結物だよ」

私が答えると、じっと背表紙を見つめていた広瀬くんは静かにその淵を指でなぞって、ゆるゆるとその目を細くした。

「本当は、声、かけるつもりとか全然なかったんだよね」
「あ、うん‥」
「でも、気づいたら声かけてて」
「‥え?」
「‥‥日比野が、あんまり嬉しそうな顔でこうしてたから」

自分でも、ちょっと驚いた。そう小さく笑う広瀬くんに、私はじわじわと自分の顔が赤くなるのを止めることができなかった。自分が、嬉しそうな顔でじっと本を見つめていたのを見られていただとか、広瀬くんが目の前でとても柔らかく笑っていることだとか、今の台詞の意味だとか。そういうことを考えると恥ずかしかったり、びっくりしたり、嬉しいような、でもちょっと都合良く考えすぎかな、なんてことが一気に頭の中を駆け巡って、なんだか軽いパニック状態だ。

「‥?日比野?」
「へ、?」
「ぼーっとしてるけど」
「あ、え、えっと、広瀬くんが声かけてくれて、嬉しかったなぁって、思って、」
「うん」
「今日、あんまり、話せなかったから‥‥‥‥って、あ、の、えっと、別に変な意味とかじゃなくって、ね?」

ぼんやりとした頭で口を開いたせいか、なんだかとんでもなく恥ずかしいことを言っているような気がして、私は段々と俯きながらぼそぼそ、付け足すように呟いた。目の端と耳がじんわり、音でも立てていそうなくらいに熱い。どうしよう。広瀬くんに余計に変だと思われちゃったかも。涙目になりそうになるのを必死に堪えていると、広瀬くんは何も言わないまま私の顔の前に手を出して、ふわふわとそれを左右に揺らした。

「調子、悪い?」
「あ‥大丈夫、だよ」
「‥そう」

少しだけ覗き込むようにしながら聞いてきた広瀬くんは、いつもより目線が近く感じる。どうにか平静を装って答えたけれど、広瀬くんは何か思案するような目で私をじっと見つめていた。

「‥ねえ。他に見たい本って、ある?」
「え、ないけど‥?」
「そう。だったら、レジ行くよ」
「、広瀬くん!?」

踵を返したかと思うと、空いている私の手を取った広瀬くんは、驚く私に構わずゆっくりと歩きだしてしまった。小さな声で叫んだ私には気づいているはずなのに、広瀬くんは無言でそのままレジ前に並ぶ列の最後尾へと進んでいく。広瀬くんの手が触れている場所が、じわじわ、熱い。なんだかもう、どうしていいか分からなかった。

「‥帰り、他に寄る所はある?」
「えっと、もう、ないけど、」
「じゃあ、本屋出たら家まで送るから」
「‥‥‥‥え、」
「大丈夫ってさっき言ったけど、ずっとぼーっとしてるみたいだし」
「‥あ、いや、それは‥」
「‥うん?」
「‥‥‥な、んでもないです‥‥」

歯切れ悪く、私ははぐらかすように目を反らす。だって、そんなの、ぜんぶ広瀬くんのせいだよ。なんて、思わず言いそうになったけど、そんなこと言えるはずがない。不思議そうに暫らく私を見つめていた広瀬くんは、けれど少しするとそれに飽きたのか、静かに視線を前に向けた。そうしてふと、気づく。広瀬くんの腕の中から顔を覗かせている、鮮やかなブルーのハードカバーの存在に。

「‥‥広瀬くん、それ、買うの?」
「ああ、うん。せっかくだから」
「‥そっか、」

緩みそうになる口元を隠して、私は頷く。広瀬くんは何も答えなかったけれど、そっと様子を窺うように広瀬くんを見上げると、ぱちり、目が合ってしまった。それから一度本に視線を落として、また、ゆっくりと私の瞳に目線を戻して、お揃い、そう平坦に呟いた広瀬くんは、微かな笑みをゆるゆると顔に浮かべる。穏やかな、声。ぎゅう、う、。途端に息苦しさを混ぜた感情が胸の辺りで音もなく揺らめいて、なのにざわざわとひどく騒がしい気のするそれは、海が近づく時、まるで波打ち際の音が少しずつ大きくなるような感覚をゆらり、私に思い起こさせた。

「、そ、うだね。うん、お揃い、だね、」

途切れ途切れな同意は、尻すぼみに宙に消えていって、沈黙。胸が、熱くて、じりじりと、痛い。あんまりにも、最近こんなふうに広瀬くんが私に接してくれるから、なんだか思い上がって馬鹿な勘違いをしてしまいそうだ。
(ちょっとだけ私は特別なのかな、なんて)
(そんなわけあるはずがないのにね、)
広瀬くんは、同年代の女の子は嫌いだって公言している人なのだ。それでも、少しも引かない顔の熱にため息を漏らして、私はしおしおと目を伏せる。

「‥‥疲れた?」
「あ、大丈夫、だよ?」
「そう」
「‥広瀬くんは、やさしいね」
「別に、やさしくないけど」
「、うん。そっか、」

即答、しかもはっきり言い切るのが、なんだかとても広瀬くんらしい。私は広瀬くんに気づかれないよう小さく苦笑して、そわそわとレジ待ちの列が進むのに足を合わせた。隣の広瀬くんも、一緒に前へ進む。どきん。どきん。煩い心音が、さっきからずっと鳴り止まない。
(‥こんな調子で私の心臓、家に着くまでちゃんともってくれるのかな、)
未だ広瀬くんとつながったままの手を見つめて考えていると、お待たせいたしました、お客様。やっとレジカウンターに辿り着いた先で、明るい店員さんの声が向けられて、私の手を握っていた広瀬くんの手は自然とふわり、離れていった。それに少しの名残惜しさを感じたりもしたけれど、安堵感の方が強くて心底ほっとしてしまう。

「‥じゃあ、行くよ」
「うん、‥って、ええ!?」

と、思ったのも束の間だったみたいだった。
何故だかお会計を済ませると、広瀬くんと私の手はまたつながって、やさしく、でも有無を言わさない力で手を引かれていく。逆らえない。

「ひっ、広瀬くん‥!」
「なに」
「‥‥‥て」
「‥て?」
「あの、だから、手が、」
「うん。手が、なに?」
「‥‥‥‥‥‥手、が‥‥‥‥‥えっと‥‥‥‥あの、手がね‥‥‥」
「‥あ、痛かった?」
「う、や、痛くは、ないんだけど」
「うん。なに?」
「‥‥、えっと‥‥や、やっぱり‥な、ん、でもない、です‥‥‥‥‥‥」

もごもご、言い淀んで、白い旗。意を決して、どうして手をつないでいるのかとか、そんな類のことを聞こうとしたはずなのに、広瀬くんがものすごく普通で、とても不思議そうな顔をしているせいでまた不発に終わってしまった。私の、馬鹿。嬉しいけれど、どきどきしすぎて喜べない。ちらり。少し前を歩く横顔を見上げてみても、本屋を抜けて夕焼けを背景に、広瀬くんはいつも通りの表情で前を向いたまま歩いている。
(私が、意識しすぎてるだけなのかなぁ‥?)
天を仰いで考えてみても、ゆらゆら、つながる二人分の影は落ちる陽に照らされて、ただただ長く伸びていくばかりだった。つないだ手は落ち着かなくて、家に着くまではまだほんの少し距離がある。だけどゆっくりとした広瀬くんの歩調は、多分、歩くのが遅い私に合わせてくれていて、それに気づくと、無性に嬉しくなってしまう。
(‥やっぱり、やさしいね、)
そう言っても、きっと広瀬くんはまた否定してしまうんだろう。だから私は口には出さずに胸に留めて、ひっそりと口元を緩ませた。

「‥広瀬くん」
「なに?」
「‥‥あのね、」
「うん」
「ありがとう、」
「‥‥‥」
「‥送ってくれて」
「‥‥うん、」

広瀬くんの、短く頷く真っすぐな横顔。それをぼんやりと見つめて、やさしい歩調を一つ一つなぞっていく。なんだかとても、しあわせだった。確かに緊張してはいるけれど、深く息を吸い込んで、あと少し、あと少し。呪文のように何度も唱えれば、不思議と過ぎる時間はあっと言う間で、私はそれを望んでいたはずなのに、やっぱり、まだもう少しだけこのままで居たかったな。家に着く頃にはそんな欲張りなことを考えてしまっている私がいるものだから、なんだかちょっとだけおかしくて、くすぐったい気分で満たされる。
(また、こんなふうに、一緒に帰れる日が来るといいのにな、)
考えながら、勇気を出して、広瀬くんの手をほんの少しだけ握り返す。そうすると、水が波紋を広げて揺らめくように、幾重にも輪を作りながら私の胸の奥には、ほんのりと温かなものが灯ったような気がした。



























あ な た と マ ー チ



title:にやり






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