失うことのない脚本
呪力の気配が徐々に大きさを増す。走りながら、何処か淀んだ陰鬱とした空気に肌が凍てつくような気がした。危険だと脳がシグナルを鳴らす。
「……っ」
学校へ着き、人一倍怖がりの私より先にぐっと息を呑んだのは虎杖君だった。今まで呪いというものに触れたことがないのだから不安に感じるのは当然だ。しかも自分の先輩がその渦中にいるのだから彼の胸中は計り知れない。
「お前は此処に居ろ。部室はどこだ?」
「!!待てよ!俺も行く!やばいんだろ!?二月やそこらの付き合いだけど友達なんだ!」
懇願するように必死に叫ぶ虎杖君を見て、とても優しい人だと思った。本物の恐怖を感じても尚、誰かを助けたい放っておけないと思える人はきっと多くはないから。でもだからこそ私はそんな虎杖君を一緒に連れて行くことはできないのだ。
彼の肩にぽんと手を乗せる。
「大丈夫。虎杖君の大切な人は絶対に助けるから」
そう告げて、恵君と一緒に校内へ駆ける。
特級呪物の影響か昼間探索したときよりも明らかに呪霊の数は多くなっていた。情け無い話、呪霊が見える度に心臓が跳ね足が竦みそうになる。
けれど、絶対に助けると約束したから。呪術師に向いていない私でも死ぬほど頑張れば誰かを助けてあげることができるかもしれないから。私は、この手を伸ばしたいと、そう思ってしまうのだ。
「現夢」
ぱんっと呪霊が弾ける。
もう一つの呪霊は恵君の玉犬が裂く。兎に角最短ルート。足を止めている暇なんて無い。
「居た!!」
遂に虎杖君の先輩達を見つけたかと思えば、髪の毛が生えた蛙のような呪霊が特級呪物ごと彼らを取り込もうとしている。間に合わないと思うより先に身体が動いていた。ーーー届け!!
しかし伸ばした手は寸の所で空を切り、二人の身体が呪霊の中へ沈む。まるで、世界が終わりを迎えるかのように視界に映る全てのものがスローモーションに見えた。嗚呼、やっぱり私は何もーー。
心が絶望に満たされていったその時、それらが一瞬で払拭される。
「虎杖!?」
なんと四階の窓を突き破った虎杖君が呪霊に取り込まれそうになっていた二人を救出したのだ。い、いや運動神経抜群なのは知ってたけどもうそんな言葉じゃ足りないくらいの異次元過ぎ!!
あまりの驚愕に固まった私に対して、恵君がすかさず呪霊に一撃を繰り出す。呪霊はそのまま床にべちゃりと倒れた。う、うわあ…あんまり良く見てなかったけれどかなり気持ちの悪い見た目をしていらっしゃる。ひええ怖い。
「何で来たと言いたいところだが良くやった」
「何で偉そうなの」
恵君の言葉に軽く首を傾げた虎杖君は恵君の玉犬が気になったみたいであれは何かと尋ねる。如何やら虎杖君は呪霊が本格的に見えているらしい。
「オマエ怖くないんだな」
「いやまあ怖かったんだけどさ。知ってた?人ってマジで死ぬんだよ」
「は?」
「だったらせめて自分が知ってる人くらいは正しく死んでほしいって思うんだ」
虎杖君の言う正しい死の本質が何を意味しているの分からないけれど、それに近しいことはたぶん理解できる。誰も死んで欲しく無いとどんなに願っても死は平等に時に不平等に訪れてしまうものだから、少しでも悔いの無い終わりを迎えて欲しいと思わずにはいられないのだ。
ーーぞわり。
突然肌が粟立つような感覚を覚えた。
「虎杖君逃げて!!」
どんっと彼をめいいっぱいの力で押すと同時に強い衝撃が身体に走る。「羽衣さん!!」と何処か焦ったような恵君の声が微かに聞こえたけれど、全身骨の髄まで酷く痛くて呻き声のような言葉にならない音しか吐き出すことができなかった。
「(……………早く、行かなきゃ)」
大きな衝撃音が2回。小さなものが数回。それと遠くの方にいる恵君の呪力が明らかに少なくなっている。危険な状況だということは見るまでも無く理解できた。ぐっと軋む身体に力を入れ、崩壊した壁から二人の姿を見下ろす。
「え………?」
そこで私は今日一番の驚くべき光景を目にすることとなる。呪術師として生きてきた人生で特級呪物を口にする人、初めて見た。