ぱた、ぽた、

擬音がわたしの耳に届いて、それはお風呂場にいることで反芻してきこえる。

シャワーコックを一気にひねってから、わたしはわたし自身を濡らしたあとで、ちゃんとコックを元の水圧がない状態へ戻したはずだった。

それなのにきこえるその音はわたしの髪の毛から滴り落ちる水滴の音なのか、それとも目尻に溜まっている涙がタイル濡らしているのか。

わたしにはよくわからない。

でも、こんなことが起きるのは一度や二度ではないことを、わたしはよく知っている。



歩いていた。

ただ、わたしは今日の夜ご飯はなんだろうと考えながら歩いていただけだった。


雲が多くて、夕焼けもしょんぼりしていた空にぼんやりと目を向けながら、体育館とグラウンドと校舎を繋ぐ渡り廊下を歩いていただけだった。

ふ、と目線をグラウンドにうつしたとき、わたしの心臓をドキドキさせる男の子が見えた。


今日はサッカーなんだな。
今日もかっこいい。

今日に限らず、明日も明後日もずっとかっこいいんだよなあなんて思っていると、青いユニフォームを着用している他校の人が蹴りあげたサッカーボールが思いがけない方向に向かっていた。

それは、チアリーディング部の女の子の足元だった。
大野くんはボールに触れてしまったふわふわの髪をした女の子に「大丈夫か?」と声をかけていて、女の子は顔を赤らめながら「あ…本物だ」と言ったあとに「助けてくれてありがとう、あの……大野くん」と言った。
大野くんは自分の名前を女の子が言ったことに驚いたのか、口が小さくあいていた。


「怪我がなかったなら、よかった。あいつらにはよく言っておくから……ごめんな」


近距離で顔を覗き込んでから、心配そうな目で上目遣いをする大野くんに、女の子は首をたてにふっていた。

そんな一撃必殺を女の子に喰らわせて、颯爽と走り去る大野くん。


ああ、やっぱり。
大野くんはとっても優しいんだ。


「うわっ」

「……え?」

「本、踏むとこだったよ。ちゃんと持ってないと…」

「あ…すみません、ごめんなさい」

「いや、いいよ」


そう言うと、その人は本についてしまった砂ぼこりを払ってくれた。
わたしは図書館で借りた本をコンクリートの上に落としてしまっていて、それを通りすがりの人に拾ってもらったみたいだ。

わたしには今、物事をあまりよく理解できない。客観的にみるだけ。


「大野くん…」


くるしい。
苦しい苦しい苦しい苦しい。
苦しくてたまらないよ、大野くん。

呼吸が上手くできないよ。
足が上手くうごかないよ。
声が上手くでないよ。
色が上手くみえないよ。


わたしのことを不思議そうに見ながら、本を拾ってくれた人は去っていった。

いつもならここでもお礼をたくさん言うのだけれど、今日はどうしても口が上手く動かなかった。


ざわざわしたグラウンドの中心に、今日もきらきら輝く大野くんがいる。

わたしとは住む世界が違うんだと前からわかっていたつもりだった。図書館からグラウンドまでがあんなにも遠いなんてわかっていたつもりなんだけれど。



時間がザーザーと流れる。
それはまるで意味のない無音放送の画面のようだった。



わたしはその場にうずくまって、動けなくなっていた。

もうすぐで最終下校時刻のチャイムが鳴る。それまでには立たなくちゃ立たなくちゃ立たなくちゃ立たなくちゃ立たなくちゃ立たなくちゃ!


強く思った瞬間、光が見えた気がした。

「穂波」

「っ…あ」

「どうした?」

「……なんで、もない」

「泣くな」

「え、う…ごめん……ごめんね、」

「謝るな」

「ごめ……う、」

「穂波に泣かれると困るから泣くな。穂波は悪くないから謝るな」


ふっと香るのはさわやかなそよ風みたいなやさしい香り。

わたしの目に押しあてられた大野くんの香りがするハンカチにわたしが吸いとられていくみたいに目に溢れていた水分が吸いとられていく。


ちっぽけなわたしの存在にも気づいてくれて、ちっぽけなわたしの涙にも気づいてくれるんだ。

だって彼は、やさしいから。

なぜわたしが泣いているのかを彼が知る日はきっと来ない。


うさぎのなみだ
2010.11.27
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