安いスプリングベッドで丸くなってすうすう寝息を立てる綾部を見ていたら、なんだかとても落ち着かなくなって、その背中をそっと撫でた。かわいい。猫みたい。一定のリズムで寝息と共に上下する薄い胸、足を丸めて寝ているせいで日焼けをしらない白い腰が黒いトレーナーからちらりと覗いていて、それがまたひどくアンバランスに思えた。それを隠すように上から薄い毛布を掛ける。それだけのことなのに、なぜか手が震えた。
たまに、ふと怖くなる。わたしは幸せなはずなのに。ひとつ深呼吸をして時計を見ると、針は七時の位置をさしていた。そろそろ夕食を作り始めないと。冷蔵庫に解凍しておいたとり肉があるはずだからトマトと煮込んでリゾットかな…。無意識は怖い。いつの間にか当り前になった二人分の食事も、今までなんとも思わなかったことが一気に怖くなった。こんなにも幸せすぎるから、怖い。わたしは今を失うことを恐れている。


綾部は高校の時の部活の後輩だ。当時の印象といわれると「ちょっとヤバイやつ」が一番最初に思い出される程、変わった男の子だった。わたしたちの所属していた美術部は、一番ボロいと評される北棟(別称、幽霊棟とも言われていた)の二階の隅でひっそりと地味に活動をしていた。その中でも、綾部の不思議さは群を抜いていたと思う。彼は金曜日の放課後しか姿を見せないのだ。それも、もうみんなが帰ろうとする頃にのそのそとやってきて、一番窓際の席で黙々と何かを描き始める。わたしが美術室の鍵を閉めるまで、そんな奇妙で心地良い時間が毎週金曜日の夜だけ、静かにずっと続いていた。結局、その絵はわたしが卒業するまでに完成しなかった。
大学を卒業して、わたしは路地裏にあるような小さな出版社に就職した。そこは一部マニア向けに美術雑誌もときどき発行していて、特に美大生の作品が多かった。その中で偶然見つけたのが綾部の作品だった。一目であの絵だと分かった。名前の下には小さく○○美術大学と記されている。いろいろな驚きより何よりも先に、会いたいと思った。そのとき初めてわたしは彼が好きだったのだと気付いた。





開けっぱなしだった冷蔵庫の扉をゆっくりと閉めて、わたしは暗いキッチンで立ち尽くした。スリッパを履いていてもこの時期、つま先は冷える。その間にも曖昧な不安は募るばかりだ。いつからわたしはこんなに感情的な人間になってしまったのだろう。人は感情的な生き物だと言うけれど、これは。怖いと縋ればいいのだろうか。どこにも行かないでと泣けばいいのだろうか。そんなのくだらない。約束でもなんでもないのに。ぐるぐると回るだけの一方通行な思考回路をいきなり遮るようにパチン、と音がしてキッチンの電気が付く。びっくりして後ろを振り返ると、おそらく今起きたのだろう綾部が、目を擦りながら壁に寄りかかっていた。「ちゃんと電気付けないと、目悪くなるよ」まだいくらか眠そうに呟く。それはいつもわたしが綾部に言ってる言葉だった。

「今日のご飯なーに」
「あ、うん…リゾットにしようと思って」

ふうん…。綾部が壁から背中を離して、わたしの前へ来る。高校時代はわたしとそう変わらなかった身長も、今じゃあもうわたしよりも全然高くなってしまった。そのまま壁に手を付くと、腕の中に閉じ込めるようにしてわたしの顔を覗き込んだ。そして静かに言う。

「…なんかあったの?」
「なんにも、ないけど」
「うそ。泣いてるよ」
「泣いてない」
「うん、まだ泣いてないけど。泣きそうだったから」

綾部ってほんと相変わらず意味分かんない。

「せんぱい」
「なに…」
「僕ね、さっき先輩の夢みたよ」
「あ、うん、そうなの?」

ふたりでスペイン旅行してた。綾部がぽつりと呟く。そういえば綾部はスペインが好きだった。ひとりで行くとたぶん帰ってこれなくなるだろうな。そう思ったから、夏にでも行きたいねって話をしたことがある。結局わたしの仕事も綾部の作品課題も終わらずに、諦めて近所のレストランでパエリアを食べて帰った。綾部はまあまあ楽しそうだったけど。

「いたいのいたいのとんでけー」

は?なに。なに言っちゃってるの。そう言おうとして、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。一度溢れた涙は止まらない。綾部のくせにずるいよ。そんなの。綺麗だけれど男っぽい手がそっとわたしの頬を撫でて、親指で涙を掬った。「おやまァ、マスカラが溶けてる」そんな呑気な言葉に思わず泣きながら笑ってしまう。今、わたしきっと酷い顔してるのに。でも、そんなことどうだっていいぐらい愛しかった。寂しい悲しい愛しい。綾部がぱちぱちとまばたきをする。深い海のような瞳が、宝石のように光を受ける。わたしたちの静かな金曜日の夜だった。

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