今日ひとつ、マグカップを割った。それがわたしの500円のマグカップなら全然良かったんだけど、きれいに真っ二つに割れたそれはタカ丸さんのお気に入りの黒いやつで、イタリアだかフランスだか忘れたけど、卒業旅行に行ったときにみんなでお揃いで買ってきたやつらしい。女子か、と思った。でも朝は毎日これでコーヒーを飲んでるし、仕事から帰ってきたときもこれを使う。そのタカ丸さんの大切な大切なマグカップ、落下、そしてお陀仏。ちーん。割れたマグカップを見て、タカ丸さん絶対怒るだろうなあ。だってこれすごくお気に入りっぽいし、ちょっとなんか高そうだし。とりあえずフローリングに飛び散った破片を片付けようとして指を切った。コンタクトをしてなかったから良く見えなかったのだ。あっという間に赤が滲んでゆく人差し指を顔に近づけて見てみると、わたしの血はそのまま手のひらをなめらかにすべり落ちていった。もうひとつ、破片をつまむ。タカ丸さんの割れたマグカップ、わたしが壊した彼の大切なもの。ぎゅっと握ると手のひらに何度か痛みが走った。わたしってずるいよなあって思った。

「ただいまあ」ガチャリと鍵を回す音がして、いつもみたいに間延びしたタカ丸さんの声が聞こえた。今日ねえ、兵助くんがお店に来たんだよ〜とかなんとか言いながらわたし(とお陀仏したタカ丸さんのマグカップ)がいる部屋をひょいと覗き込んだ。タカ丸さんの動きが一瞬完全に停止して、それから再起動して、今度は思考回路が停止してるみたいにぎこちなく部屋の中央まで歩いてきた。ぺたんぺたん、スリッパの音がいつもより何倍も頼りなかった。よろよろ、という表現が一番似合うかもしれない。「ど、どうしたの?」「さっきタカ丸さんのマグカップ落として割っちゃった、ごめんなさい」「あ、え、そうなの?うん、いや、それは、いいんだけど」意外とあっさり許された。「その手、何があったの、どうしたらそんなに血まみれになるの」手?わたしは自分の右手を見た。さっき握った破片のせいで手のひらがざっくり切れていて、この前買ったばっかりの白いワンピースの裾を汚していた。「お、おうきゅうしょち…」そういえばタカ丸さんは全般的に怪我とかそういうのが苦手な人だった。いつもテレビで怖いのがやってたりすると「ぎゃっ」とか「うわっ」言いながら目を瞑る。
わたしは立ちあがると近くの洗面台で右手を洗った。血と一緒に心臓から真っ黒な何かも流れていく気がした。そのあと汚れたワンピースも脱いで洗濯機に突っ込む。下着のまま部屋に戻るとタカ丸さんは干してあったジャージをすっぽりとわたしに被せた。

「傷見せて」
「え、いいよ。自分でやるから大丈夫」
「右手じゃん、無理だよ」

タカ丸さんこそそういうの駄目じゃん、無理だよ。とは言わなかった。また血の滲み始めた手のひらをタカ丸さんの前に差し出す。「うわ〜うわ〜」いきなりマキロンをぶっかけられた。下を向いて左手でジャージのチャックをいじりながらじわじわとする痛みに耐えているとぐすっぐすっ、と鼻をすする音がしてわたしはぎょっとして顔を上げた。タカ丸さんが泣いてる。透明な涙を両目の縁ギリギリまで溜めて、もうすこしで零れおちてしまいそうだ。衝撃的なシーンを見てしまったような気がして、わたしは慌てた。マグカップ割っちゃったから悲しんでいるだろうか、それともタカ丸さんのカードで買ってもらったばっかりの新品のワンピース汚しちゃったから怒ってるんだろうか。というか怒ってるのか悲しんでいるのかちょっといまいち分からないけど。タカ丸さんの塗れた黒いまつげを見ながら考えているとオロナインがわたしの傷口に大量投入された。ぐす、ついに涙が一粒零れおちてライトブルーのTシャツに吸い込まれていってしまう。「タカ丸さん、あの、」ガーゼ、ぺたん。白い包帯で右手がぐるぐる巻きにされていく。さすが美容師さん、器用だなあ。じゃなくて。

「あの、タカ丸さん、ごめん。マグカップ同じの売ってないけど、あの」
「マグカップじゃない、それはもういいよ。でもなんでこんなことしたの、心配させないでよ、もう」

約束して。抱きしめられてタカ丸さんの胸に押し付けられる形になってた。普段ふらふらへらへらしてるように見えても彼は意外と力が強い。それに首筋に触れる透けるような金髪はごわごわじゃなくてとても柔らかい。なんでだろう、お風呂場にある高そうなトリートメントがいいのかな。アウトドアが好きなくせに肌は白い。鎖骨が女の人みたいにきれい。腰が細い。でもちょっとだけ香水と煙草の匂いがする。触れなきゃ分からないこと。見てるだけじゃ分からないこと。わたしにしか知らないこと。それにタカ丸さんは体温が高い。

「ほんとにもうしないって言って」
「しない。あとマグカップも割らない」
「うん、約束だからね」

ぶうん、夏に使いすぎてすっかり弱っていた安い扇風機が突然変な音を立てて止まってしまった。タカ丸さんが何年か前に商店街のくじ引きで当てたやつだった。本当は一等の温泉旅行が良かったねってふたりでアパートまで運びながら笑った。わたしはちっちゃいティッシュだったけど。その扇風機のあまりにも間抜けでかわいそうな最後に、思わず顔を見合わせて笑ってしまう。笑いながら、なぜか涙が出た。タカ丸さんも笑いながらちょっとだけ、泣いた。しあわせとかなしみは、きっと同じところにあるのだろう。どこか、どこか。

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