「明日海に行こうよ」と、実に短いメールがアイスをくわえるわたしの携帯に届いたのは夏休みも中盤の蒸し暑い夜だった。狭い部屋では扇風機がぶうんと低音を鳴らしている。メールの送信者は同じクラスの一之瀬くんだった。もちろんわたしと一之瀬くんは恋人同士という訳でもなければ、特別仲が良い訳でもない。況してやわたしは彼がアメリカからの転校生ということもあってか、なんだか眩しくて近づけないというのに。
接点といえば文化祭で同じ係りになったことぐらいだ。その時に交換したままだったアドレスがまさかこんなときに役立つとは、先月のわたしは思ってもみなかっただろう。


メールの返信ボタンに親指を乗せる。「どうして?」は、失礼だろうか。だったらなんて返そう。そもそもなんでわたしなのだろう。海ってどこの海だろう。何をしに行くんだろう。疑問は有り余るほど見つかった。そのまま暫くの間ぼんやりとしていると、握っていた携帯が突然のバイブレーションを伝える。思わず落としてしまった携帯はベッドの上で跳ねて、画面が照らし出された。着信は「一之瀬一哉」だ。


「もしもし…?」
「こんばんは、いきなり電話しちゃってごめん。今、時間大丈夫?」
「あ、うん大丈夫」
「よかった。でさ、突然で申し訳ないんだけど、明日って予定ある?」
「…ない、と思う」
「俺と海に行ってほしいんだ」

一之瀬くんの声はいつもと何も変わってはいなかった。それでもどこか強い意志を含んでいるようにも聞こえた。「うん」と小さく答えれば一之瀬くんは「やった!じゃあ10時に迎えに行くよ」と言って、電話は切れた。通話時間は5分。たった5分だけだったのに、わたしの心臓は悲鳴をあげている。





電車に揺られながら、わたしはちらりと隣に座る一之瀬くんを見た。昨日の疑問の中で結局分かったことは、どこの海に行くか、ぐらいだ。何しに行くのか、はまあ、遊びに行くんだろうということで自己解決することにした。ガタン、と電車が大きく揺れて伏せていた顔を上げれば、外には海が広がっていた。思わず声をあげたわたしに、一之瀬くんが笑う。

「ちゃんと水着持ってきた?」
「えっ、持ってくるの!?」
「冗談だよ」
「焦った!」
「俺は見たかったけど」

なんてね。一之瀬くんは見かけによらず意地悪だ。



イルカショーというカラフルな看板に惹かれて入った水族館は、家族連れやカップルで賑わっていた。水族館に来るのはずいぶんと久し振りのように感じる。わたしの部屋よりも大きな水槽にはいろいろな色や種類の魚が悠々と泳ぎ回っていて、まるでおもちゃ箱の中みたいだった。ふと、きれいなブルーの魚が目の前を横切る。

「あれきれい!」
「え、どれ?」
「あれ!あの岩のところに隠れてるやつ」
「ほんとだ」

でしょ!と振り向けば一緒に水槽を覗き込んでいた一之瀬くんの顔がすぐ近くにあって、わたしは思わず変な声をあげてしまいそうになるのをぐっと飲み込む。長いまつげに縁取られている一之瀬くんの真っ黒な瞳の中には、水槽の中を泳ぐ魚の様々な色が反射していて、きらきら光る宝石のようだと思った。



張り切って一番最前列に座ったイルカショーで盛大に水を被りずぶ濡れになって笑いあった後、近くのハンバーガー店で食べていなかったお昼を済ますと、時間はもう4時過ぎだった。急いで海に行くと、遊泳時間は終わったのか砂浜に見える人は疎らだった。

「ごめん。遊泳時間、終わっちゃったみたいだ」
「泳がないからいいよ」
「そっか」

ざあざあと波が揺れて、砂をさらってはまた消えていく。疎らに残っていた人たちも時間が経つにつれて、ひとり、またひとりと消えていった。

「花火でも買ってくればよかった」
「勝手にやってもいいの?」
「バレたら逃げちゃえばいいんだよ」

そう言って一之瀬くんはいたずらっぽく笑う。その後ろに見える海面は、ゆらゆらと揺れながらオレンジの夕日をそこに映していた。今日分かったことは、たくさんあるけれどまだ大切なことは分かっていない。わざわざ聞く必要もないかなあ、なんて思ったとき、一之瀬くんがぽつりと呟いた。

「俺、アメリカに戻ることにしたんだ」
「…そう、なの」
「うん。だから、文化祭の係ひとりになっちゃうけど」

そこまで言うと一之瀬くんは「ひとりでもちゃんと出来る?」とわたしを見た。てっきり真剣な話だと思っていたわたしの方といえば、はどんな顔をすればいいかも分からず複雑な表情のまま「出来るよ!」と答えた。

「一之瀬くんってば、わたしのことばかにしてるでしょ!」
「してないしてない」
「うそだ!」
「ほんとです」

複雑な表情をいろいろと変えながら文句を言えば、一之瀬くんは「なんだか百面相みたいだ」と、わたしを見て笑う。

「…いつ引っ越すの?」
「明日」
「え、あ…あした!?」
「うん、だから今日しかなかったんだ」

これでまたひとつ昨日の疑問が解けた。けれど、一番聞きたいことはまだ残ったままだ。聞いてみたい、だけど知ってしまったらきっとわたしは戻れない。一之瀬くんはそんなわたしを見て困ったように笑い、視線を揺れる海に向けた。
少ししてから顔をあげた一之瀬くんの瞳には一瞬だけ、あの時と同じように魚が泳いでいるようにも見えた。海の色よりも真っ青のきれいな魚が。

「好きだよ、俺は、ずっと」


ゆっくりと頬に触れた指先はわたしの体温よりもずっと高く、じんわりと熱を帯びていた。確かに日に焼けた男の子の手なのに、なぜかとても美しかった。掴まれた手首が熱くて、そこから溶けてしまうかのような奇妙な錯覚に陥る。でも、もうこのまま溶けてしまってもいいと思えた。

青い魚はわたしの涙の中で揺らめいて消えていく。

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