仕事から帰ってきて、堅苦しいシャツのボタンを片手で開けながらマンションの階段をのぼる。マンションと言えるのかさえも不安になるような小さな建物。最寄りの駅からは少し遠いし、そんなに新しいわけでもないが、七畳の1K、私はなかなか気に入っている。ぼんやりと光る電球に照らされた踊り場の窓ガラスは、いつもと同じようにきれいに磨かれていた。月が見える。

友人のお土産のストラップやら何やらが絡まってぐちゃぐちゃに付いた鍵をガチャリと差して、さらにぐるりと一回し。ドアを開けるとなんとも美味しそうなシチューの香りが鼻をかすめた。そこでやっと、私はお腹が空いていたことを思い出す。

「ただいまあー…」
「おー」

狭いキッチンを覗いて、後ろから小さく声を掛けると、真っ赤な髪の毛の彼は「おかえり」と振り返って、明るい笑顔を見せた。手にはお皿を持っている。どうやら今夜の食事にはシチューの他に、違うおかずたちも付くらしい。うん、なかなか豪華だ。

そこで一つ誤解しないでほしいのは、この赤髪の男の子、丸井ブン太は私の弟などでも無ければ、ましてや彼氏なわけでも無い。じゃあ友人か、と問われればそこは非常に微妙なラインである。つい数日前に家に転がり込んできた見知らぬ少年との関係を世間一般では友人と言うのだろうか。いろいろと思考を巡らしながらぼんやりとその背中を眺めていると、気付いた彼はそのまま私に近づいてきた。ふわりと天気のいい日みたいな柔らかい香りがする。以前のわたしの家には決してなかった香り。

「…どーした?なんかあったのかよ?」

下から顔を覗き込むその瞳は、私なんかよりも全然大きいんじゃないのかとも思った。急な視界の変化に驚いて、パチパチと瞬きを繰り返せば、彼と違ってマスカラやアイラインで少しでも大きく見せようと頑張った私のかわいそうな瞳は酷く乾燥していた。

「え、別に、なにも」
「でも すげえ疲れたって顔してるぜい?」
「…大丈夫」
「ま、いいや。とりあえずシチューとか作ったから、食う?あ、それとも俺にする?」
「シチュー」

えーなんだよ冷てえの。そう呟いてて彼はまたキッチンへ戻っていった。私はバッグを近くに投げると部屋のソファーにダイブする。狭い部屋で明らかに場所をとっている真っ白なソファーは私がどうしても欲しくて、貯金をしてやっと購入したものだ。残念ながら、現在は彼の寝床になってしまっているわけだけれど。

部屋は朝よりきれいに掃除されていた。切れていたはずの芳香剤も買ったのだろうか、微かに柑橘系のさわやかな香りが漂ってきてなんとなく落ち着かなくなる。恐らくヘビースモーカーの私への配慮なのだろうけれど。
ブンちゃんが作ったというシチューは絶品だった。一緒に住んでみて知ったのは、彼は料理がすごく上手い。そして掃除も洗濯もなんでもテキパキとこなす。本当に不思議な少年だということ。

「そういや、今日ケーキも作ったんだった。食べる?」
「…何ケーキ?」
「タルト〜」
「…食べる」

そして彼は、私の好きなものが分かるらしい。言った覚えはないのだけど。尚更に不思議だ。





ブンちゃんの寝床兼私のソファーに二人で座ると、もう余裕は無かった。もともとこのソファーは大きくないのだ。ぎゅうっと腕にくっついてきたブンちゃんからは甘ったるい香りがした。

「なあ、美味い?」
「うん、ブンちゃん本物のパティシエみたい」
「良かった」

にこっと嬉しそうに笑った顔はまだ少年のあどけなさを残していた。そういえば私はかろうじて彼の名前を知っているだけで、他には何も知らない。一体何歳なのか、家族は、学校はどうしているのかとか。その他いろいろ。でも特別知ろうとも思わない。自分でも不思議だが、もしブンちゃんが私を利用しているだけでも、いつの間にかパッと居なくなっても、きっと私はそれを許してしまうと思うのだ。そうしているうちに、ブンちゃんの腕が腕から体へ回る。

「…俺さ、料理も掃除も洗濯もなんでも全部やるから」

私にきつく回された腕に一層力が加わる。痛いよ。それでも私には、それを拒絶することはできない。首筋に埋められた柔らかい髪の毛が私の肌をくすぐった。

「やるから、捨てないで」

泣いているように消えていった呟きは、微かに震えていた。そして、まるで子供のようにその姿は小さく小さく見えた。
私だって、捨てたくても捨てきれない。わたしにはなにも捨てられない。ここまでに依存してしまう私も貴方と同じ、馬鹿なのだ。

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