ケホケホと渇いた咳が胸の奥から溢れ出る。止まらない。肋骨と背骨が音を嫌な立てて軋んだ、ように感じた。その苦しさに空気を取り込めば、爛れた肺は焼けるように熱い。

お前はおかしな咳をする、と言われた時には特別気に留めもしていなかった。ただ季節の変わり目だったから、いつもの風邪かと思っていただけ。それがこの様だ。
開け放たれた障子の奥にずっしりと広がる庭。その中に青々と茂る木々たち。裏の方から聞こえる稽古の声。そこに自分がいないことが酷く滑稽に思えてしまう。まあ、いつもいなかったけれども。それを後悔するにはもう遅すぎた。ハハ、と力なく唇から漏れ出た笑いは明らかに微かな自嘲を含んで乾いている。こんなとこ見られたら、またあいつに怒られちまわァ。それでも泣くことも嘆くことも出来ない、もう笑うことしか出来やしないのだ。あいつはもういない。







あれは、ざあざあと雨が音を立てて降る夜のことだった。バシャン、と踏み込んだ足が水を跳ねる、泥を飛び散らす。既にびしょ濡れになっていた隊服はずっしりとした重さとこの現状をリアルに突き付けていた。吸っているのはもちろん、雨だけではない。だが鼻を付くような鋭い鉄の匂いに顔をしかめる暇さえもあるはずがなく。ギュッと握り直したはずの柄も血でぬるりと滑った。厄介だ。
ふと路地を曲がった辺りで自分の体が異変を訴えていることに気付いた。足が宙に浮いているかのようにふわふわとして視界がしっかりと定まらない。熱があるかのようだと思った。胸が苦しくてぜえぜえと肺に息を取り込むが、これもまたうまく奥に入っていかない。自分がこんなおかしな呼吸をしているのを、初めて聞いた。少なくとも俺の知っている沖田総悟は、こんな死にそうな呼吸などしないはずなのだから。

「隊長」

地面に突き刺した刀を杖のようにして暫く呼吸を整えていると、後ろから掛かる静かな声。あまりにちいさな声なものだから、雨の音と暗闇に飲み込まれてしまいそうであった。声のした方を振り向く。

「…なんでィあんたか。びっくりさせんな。一瞬幽霊かと思っちまったぜィ」
「ちょっと何言ってんですか、不謹慎な」
「ハハ、違いねェ」

あんたなんか五千回ぐらい殺さねェと死なねェや。そうふざけて言えば、じゃあ隊長は一万回ぐらいですねえ、なんて言いやがる。全く良くできた部下だ。雨で柔らかくなった地面から勢いよく刀を抜いて払った。その拍子に泥がパシャリと宙を舞う。

「雨、すげェな」
「ええ本当に。お陰で足場が滑って困ってますよ」

眉をひそめ、そう愚痴って彼女は左手の親指で下唇をなぞるように触った。これはあいつが苛ついているときの癖であると、俺はこの前の観察で発見した。なるほど、分かりやすい。
そしてあいつは俺の前まで来てにっこりと笑うと「動けないなら肩でも貸してあげましょうか?大福、ひとつで」なんて良い笑顔で聞いてきやがった。今度は苛つくのはこっちの番だ。良くできてはいるが、なかなか嫌味の多い生意気な部下である。一体誰に似たのだろうか。土方に違いない。

「……頼まァ」

はいはい、とあいつは笑って俺の腕の下に自分の細い肩をするりと滑り込ませた。この雨で冷えたのだろうか、一瞬だけ触れた肌はまるで氷のように冷たい。

「…やっぱり嫌なもんですねえ」
「雨ですかィ?」
「それもそうですけど」
「…あァ」

本当嫌だねィ、血の雨なんて全く良い趣味してまさァ。馬鹿らしい。
帰路を向かう足取りは雨を吸ってずっしりと重い。





戦いたいと思っても体が言うことを聞こうとしないということを、俺は初めて体験した。ズキズキと痛む肺はより一層爛れたようにも感じる。枕元に置かれた刀はただ眺めるだけだ。使い込んだ柄、ところどころに刻まれた傷はその証。あーあ、お前もなかなか弱っちまってんなァ、主人と一緒で。かわいそうに。
バタンと白い布団に寝転んで、点々と茶色いシミのついた天井をぼんやりと見上げてみる。裏の稽古の声は、いつの間にか止んでしまっていて耳に残るのはなんだか嫌な静寂ばかり。逆に落ち着かない。ちらちらと見える色付く視界さえも煩わしくて、俺は寝転んだままそっと目を閉じる。


「…はいはい隊長、起きてー」

突然パンパンと数回手のひらを鳴らす音が耳元で聞こえた。うるせェな。こちとら今日はもう仕事終了でィ。山崎にでもやらせとけっての。

「起きて〜」

ぱちん、と頬を軽く叩かれて目を開ける。その先にあったあいつの仏頂面とご対面。なぜか酷く懐かしいような気がした。

「…何しやがんでィ馬鹿女」
「今日、非番だから花見行っていちゃついてるカップルの邪魔して屋台全制覇する約束したじゃあないですか」
「あー…したようなしてないようなしてないような」
「しました!ほらほら、早く起きて着替えて。わたしあっちで待ってますからね」

ぐい、と腕を引かれて勢い良く体を起こされる。咄嗟に、やばい、と思ったが不思議と全く苦しくない。おかしい。ふと外を見ればさっきまでの青々とした木々はどこへやら。怖いぐらいに多すぎる満開の桜で埋め尽くされてしまいそうな庭。これまたおかしい。上体を起こしたまま、ぼーっと庭を見つめていると縁側にぽつんと立っていたあいつがくるりとこちらを振り向いた。その表情はどこか酷く寂しそうだった。
その瞬間、俺はすべてを悟る。なんだそうだったのか。俺は笑った。

「…悪ィけど、俺ァまだ行けねェや」
「……まあ、あなたなら絶対そう言うと思ってましたけど」
「たち悪ィな、相変わらず」
「それはどうも。あなたの部下ですからねえ」

ふふ、と笑う顔は昔と何ひとつ変わってはいなくて、それが余計に俺を息苦しくさせる。

「…俺も、もうすぐ行くから」
「そんなに急がなくていいですよ」
「んなこと分かってらァ。亀より遅い速度に決まってんだろ。俺ァ制限速度は守る男だぜィ。なんてったって警察だから」
「一体どこのスピード違反者が言えるんですか、そんなこと」

そう笑い飛ばす、俺の声は震えてはいないだろうか。俺はいつもみたいにうまく笑えているだろうか。俺は、泣いてはいないだろうか。
あいつの異常に白い指先がスッと静かに障子を閉めた。光を失い薄暗くなる部屋、遮られたその先に行けばきっとこちらには戻ってはこれなかっただろう。本当は、それでも良かったと思ってしまっているのかもしれない。俺から剣を取れば何も残りはしない。こっちの世界にはもう何も、お前さえもいないのに。なのに俺は行けなかった。

「じゃあ、わたしひとりで行っちゃいますからね。ひとりでカップルぶっ潰して屋台制覇してきちゃいますから」
「おう。あ、俺の分のイカ焼きも買ってこい」
「病人はお粥でも食って寝てろ」
「いい度胸だなテメー」

ほら、俺の声はやっぱり情けなく震えてやがる。「わたし、行かなきゃ」あいつはにっこりと笑顔を見せて、俺に聞こえるか聞こえないかの間のちいさな声で「おやすみ」と呟いた。その指先がそっと俺の瞼に触れる。
あの日と同じ、氷のように冷えていた。


次に俺が瞼を開けるときはきっと肺は死ぬほど苦しいだろうし、桜もまだ咲いてねェだろう。今年の桜なんて見れるかすら分からない。だけど、あの生意気な部下にだけは笑われねェようにしっかり生きて最後の最後まで呼吸してやろうと飲み込まれる意識の中、俺はそう決めた。


また会う時まで少し、さよならだ。

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