少し骨ばった温かい手がわたしの髪の毛に触れる。触れるというより、ぐちゃぐちゃと頭をかき回すような仕草に手の甲をぎゅっとつねれば、その手はそろそろと退散していった。ブラシブラシ、朝どこにしまったっけなあ。ベッドに寝転がったまま手探りでブラシを探していると、100均で買ったわたしの赤いブラシを片手に喜八郎がいつの間にかベッドの脇にぼんやりと立っていた。なにしてんの。せめてズボンぐらい穿いてよ。ネイビー地にふんだんにピンクのドットが描かれたド派手なトランクスはわたしがこの前の誕生日にあげたやつだった。わたしとしては、本当はトランクスなんかプレゼントする予定はまったく無かったのだが、誕生日の数日前に欲しいものを聞いたら即答で「パンツ」と返ってきたためにプレゼントはトランクスになってしまった。意味不明。こちらご自宅用ですかあ〜?やたら語尾を伸ばす店員にご自宅用なわけがないだろと思ったが、わざわざリボンでゴテゴテにラッピングしてもらうのもなんだか面倒だったので断れば、趣味の悪いトランクスはそのまま紙袋にぽつんとひとつ入れられていた。ざまあみろ。ダサいパンツ穿いてみんなに笑われろ。数日後の誕生日に家に来て、帰り道にコンビニで買ってきたぱさぱさのチョコレートケーキのスポンジ部分をフォークでつついていたいた彼に無言でその紙袋を差し出せば、彼は中からパンツを取り出して喜んでいた。うわ〜、ありがとう。馬鹿、そんなの素直に喜ばないでよ。一瞬でもそう思ってしまったわたしは本当に性格が悪い。


ベッドに腰をおろす喜八郎を見て、そのパンツ趣味わっるう〜。とわざと口に出して呟いてやったけど本人はさして気にしていない様子だった。「これ?」びよん、ぱちん。喜八郎はパンツのゴムの部分をブラシを持っていない左手で不思議そうにちょっと弾いた。Vネックの黒のTシャツからすらりと伸びた細い首筋にはうっすらと汗が滲む。

「ちょっと、髪の毛結びたいからブラシ返してよ」
「えー僕がやる」
「やだ、喜八郎なんか不器用そうだし」

あれ、そういえば。ガムの包み紙のちいさな銀色の鶴。「超新星2号」と壊滅的ネーミングセンスによって名付けられたかわいそうな紙の鶴を思い出した。きらきらしてて、ちょっとぽっちゃりしてて、かわいい鶴。高校の時にみんなで折ったんだっけ。それで喜八郎はわたしにくれた。ううん、わたしが欲しいって言ったんだっけ。そのあとどこにしまったんだっけ。思い出そうとしても薄れた記憶にはきれいにフィルターがかかっていた。全部包んで隠すように。記憶とは忘れるのではなく、思い出せないだけなのだとどこかで聞いたことがある。でもきっと嘘だ。忘れちゃってるもん、そんなの。きっと喜八郎だってそう。そう考えれば考えるほど、こいつはきっとなーんにも覚えてないだろうなと思った。くやしい。まくらに顔を押し付ける。ぼすん、空気の抜ける間抜けた音と喜八郎のちいさなちいさな笑い声が聞こえた。

「ねえねえ、こっち向いてよ」

ゆさゆさと背中を揺さぶられてそれも無視していたら、今度は着ていたキャミソールをぺろんと上の方まで一気に捲られた。ぎゃああああ!びっくりして飛び起きる。思わずばしっと喜八郎の肩を叩けば「いたいよ」と全く痛そうじゃない声で返ってきた。「だってブラジャー付けてるのかなって思ったから」彼はとても素直だ。なるほどね。だからキャミソールを平気でいきなり捲っちゃうようなびっくりな男の子に育っちゃったわけだ。

「髪の毛結んであげる」
「はいはい」

ひょろひょろなのに、白い足首なんてわたしより細そうなのに、喜八郎の力は意外に強い。最初会ったとき、こいつ絶対に女々しいだろうなって思ってたのに。そんなことなかった。むしろ女々しいなんてもんじゃなく、その正反対だった。なんか足がたくさん生えたグロテスクな虫がお風呂場に出てわたしが盛大に悲鳴をあげたときに、普通に入ってきたかと思うと、素手でその虫をつかんで窓からポイ。しかも、ばいばいって言ってたような。わたしは頭を洗っていた途中だったから、シャワーはじゃあじゃあ流れてるし、もちろん裸だった。「だいじょうぶ?」流れっぱなしのシャワーをキュッと締めながら喜八郎はわたしに尋ねた。どこで買ったのかも怪しい変な模様の描かれたグレーのTシャツはわたしが跳びついたことにより、びしゃびしゃに濡れていた。もうどうしようもなく愛しかった。


「ふわふわしたやつは?」
「なにそれ?」
「いつも付けてるやつ」
「シュシュのこと?」
「それ。僕それ好きだよ」
「あっそう」

喜八郎に髪を掴まれたまま手を伸ばして、ベッドの横の机からシュシュを取る。白いレースとかリボンみたいのとか全部混ぜたようなやつ。近所の雑貨屋で700円ぐらいだったやつだ。「北海道の牧場の羊みたい。かわいい」よしよし。喜八郎はなぜかわたしの頭を数回撫でた。


「このあとアイス買いに行こう」
「でも外すごくあついよ。日焼けしそう」
「バイク出す?」
「喜八郎の運転荒いからやだ」
「じゃあ自転車?」

バイクも自転車もたいして妥協出来てないし喜八郎は相変わらず坂道でスピードを出しまくる。自家製ジェットコースターか。そのくせ彼は遊園地では怖いからと言って断固としてジェットコースターに乗りたがらないような不思議ちゃんである。
そうこうしているうちに髪の毛が出来上がったらしい。喜八郎が自慢気にわたしのポニーテールを揺らした。鏡を覗くと、すっきりと後ろで髪の毛をまとめたわたしがいた。

「アイス買うならティッシュも買わなきゃ、あと夕食の買い物もしたいし」
「大荷物」
「今日なに食べたい?」
「ハンバーグ」
「じゃあまずなんか穿いてきて」
「うん、1分待ってて」

喜八郎はそう返事をしたものの、非常にのろのろとベッドを降りた。弾みでスプリングがキイキイと安っぽい音を立てる。これは確実に1分じゃ間に合わないでしょ、喜八郎さん。なんだかちょっとおかしくなって思わず笑えば、喜八郎は手にタンスから出したジャージを掴んだまま、きょとんとした顔で振り返るのだった。

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