わたしの中には海があって、その海がざあざあと波打つことでわたしの鼓動となる。海からは生命が生まれ、やがてそれはわたしの一部となる。つまり、結局はあなたもわたしのほんの一部分に過ぎないということなのですよ。
日本さんは右手で海の水をぱちゃぱちゃと掬いながらそう呟いた。それはあまりに静かすぎて、一瞬、独り言のようにも聞こえた。透明な水がぴしゃりと跳ねて、日本さんの袂を少し濡らした。濃い模様が着物にぱっと広がる。日本さんは続ける。「わたしにも、ちゃんと感情はあるのです。悲しいとか、嬉しいとか。あなたと同じように、厄介な感情が」日本さんがゆっくりと海から手を抜くと、白い指先からはぽたぽたと水が滴り落ちていった。それを払うと、日本さんはわたしを振り返って微笑んだ。「今夜はあなたの好きなお蕎麦を湯でましょうね」その瞳の色は、海よりも幾分と深く。


広い御座敷に二人きりであたたかいお蕎麦を食べていると、日本さんは箸を置いてふと思い出したようにわたしに問い掛けた。

「あなたは、人とは厄介なものだと考えますか?」
「どうしてまたそんな」
「いえ、まあ少し気になったものですから」
「はあ…」

ぱらぱらと七味をお蕎麦にふりかけながら、日本さんは笑う。気になったにしては、それはわたしにはいささか難しすぎる質問だった。わたしは暫く向こう側の障子をじっと見つめてみた。それから手前に視線を戻して、机の木の模様を見つめた。最後にまだ湯気の立つお蕎麦を見た。当然のように、そこに答えはなかった。「…わたしには、わかりません」それが今のわたしの正直な答えだった。日本さんはわたしのその答えにゆるく微笑んで「お蕎麦が伸びますよ」とだけ言った。それが正解だったのか間違いだったのか、日本さんしか知らない。


毎日食事の後にお風呂を洗うのはわたしの役目だった。二人しか住んでいないこの家のお風呂は、わたしたちには随分と大きい。でも、毎日しっかりとお湯を張るのが当たり前になっていた。いつからかは知らない。きっとわたしが生まれるもっと前。
わたしによって随分と使い込まれた束子はもうぼろぼろだ。早く新しいものを買いに行かなくては。そんなことを考えながら丁寧に浴槽の側面を磨いてゆく。考え事をしていたからだろうか、指先にちくりとした鋭い感覚を感じ、わたしは思わず顔を顰めた。見てみると、古い束子から細い針金が飛び出し、わたしの指先を突き刺したようだった。指先にぷくりと赤い血が球を成す。蛇口から流したままの水が床に落ちて、ざあざあと音を立て続けている。わたしは蛇口から流れる水を止めて、静かにお風呂場を出た。なぜかこの傷を日本さんに見せなければいけない気がした。
日本さんはわたしの小さな小さな傷を見ると、怒ったような苦しいような表情を浮かべて、わたしの右手を引っ張って台所まで歩いた。そしてしっかりと消毒をすると、丁寧に傷薬を塗り、小さな包帯を器用に巻いた。そこまでしなくても大丈夫です、日本さんが傷薬を塗り終わった辺りでわたしは声を掛けたが、彼は指を離してはくれなかった。

「わたし、まだお風呂洗い終わってないんです」
「わたしがやっておきますから」
「でも、」
「これからはお風呂掃除もわたしがやります」

わたしの声を遮って、日本さんはきっぱりとした口調でそう言った。そして本当にそれ以降、わたしがお風呂掃除をさせてもらうことは無かった。古くなったあの束子はどうしたのだろう、ちゃんと日本さんは束子を買い替えてくれただろうか。


お風呂掃除はこの広い広い御屋敷でわたしが任されていた唯一の仕事だった。それを無くした今、わたしはお風呂場から聞こえてくるざあざあという音を聞き流して、大広間でもうすぐお風呂場から帰ってくるだろう日本さんのためにお茶を淹れていた。これも普段は彼が淹れてくれるのだが、たまにはいいだろう。ゆったりとした足音がわたしの耳に聞こえ、やがて障子が開いた。

「日本さん」
「おや、やはり緑茶にはお漬物ですね」

わたしがやります、という言葉を待たずに日本さんは台所へと消えていった。わたしは言いかけた言葉を飲みこむと、少しだけ上げた腰を元の座布団の上に仕方なく戻した。たまにはわたしに用意させてくれてもいいのに。ご飯も、掃除も。わたしだってもう小さな子供なんかじゃない。一人で出来るのに。漬物の乗ったお皿を出す日本さんの手を眺めながら、わたしはぼんやりとそんなことを思っていた。

わたしが髪の毛を拭きながらお風呂場から出てくると、台所でお皿を洗っていた日本さんは、おかえりなさいの後に「湯冷めしないように」と後から小さく付け加えた。それがなんだかおかしくて、わたしはくすりと笑ってしまう。なんて心配性な日本さん。その細い背中にそっと自分の額を寄せれば、日本さんもくすぐったいと笑った。

「一体どうしたんでしょう。あなたが甘えるなんて珍しい」
「わたしだってそういう日もあります」
「そうですか?」
「…日本さん。もし、もしですよ。わたしがいなくなったら、」

しかし、その言葉を最後まで言い切ることはできなかった。日本さんの静かな声がわたしの言いかけた言葉を遮る。「あなたを失ったら、わたしはわたしではいられない」その声はとても静かなのに、わたしの耳にしっかりと届いて、焼きついた。おそらくわたしだけ、わたしだけに向けられた言葉。くるりと日本さんが振り向いて、今度は動けないわたしをしっかりと抱きしめる。この細い腕のどこにこんな力があるのだろうかと思うぐらい、強く。

「…こんな感情、全て失ってしまえれば楽なのに」

それっきり日本さんは何も言わなくなってしまった。かわりにその細い肩が小さく震える。押し殺したひそやかな嗚咽だけが静かな夜に、ただ落ちていった。

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