薄暗い台所の机の上にそれはあった。それは白かった。決して真っ白というわけではなかったが、それは確かに白色だった。小さな透明のガラスの小瓶に入ったその粉を沖田はそっと振ってみた。さらさら、ぱらぱら。粉の揺れるかすかな音が、小瓶のガラスに反響してまた落ちて、元に戻るようにそっと吸収されていくようだった。同じことの繰り返し、音が落ちて、吸収されて、また揺れてゆく。それを二、三度繰り返したあと、ガラスの小瓶をもとあったところにおいてみた。誰のものかは知らない。そしてこれが何かも沖田は知らなかった。実を言うと、これが誰のもので中身の正体は一体なんなのか、今の沖田には至極どうでもいいことだった。それより、腹が減っている。手始めに近くの戸棚を開けると、そこに並ぶのは調味料だった。瓶にはひとつひとつに古ぼけたラベルが貼られている。「さとう」「しお」「こしょう」、その他諸々。今にも剥がれおちてしまいそうだった「しお」のラベルをそっと人差指で抑えて、戸棚を閉めた。ここは調味料入れだったのか。調味料なんかじゃ腹の足しにもなんねェ。二番目の戸棚には布巾が畳んで入れてあった。ここも違う。三番目には長さのまちまちな箸たちがぎっしりと。はて、大福が入ってる戸棚はどこだったか。自分たちの屯所内といえども台所など滅多に弄ることのない沖田には、ずらりと並ぶ戸棚の中からひとつの正解を当てるのは酷く困難な技であった。

「あれ、沖田隊長?どうしたんですか」

今度は反対側の戸棚の扉に手をかけたとき、暖簾の向こうからひょいと顔を出したのは山崎だった。手に握られているのはいつものラケットとは違い、これまた使い込まれたオンボロ包丁だった。いつもの黒い隊服の上から白い割烹着を着こんだ山崎は酷くおかしなものに見えて、沖田は思わずその大きな目をぱちくりとさせた。

「…なんでィその格好、笑えらァ」
「ちょっと、しょうがないでしょ…俺だって料理なんて出来ないのに」
「ハハッ、ちょっとこっち向いてくだせェ。お前のその勇姿、特別に俺の携帯に納めてやりまさァ」


あれから見事に台所を追い出された沖田は、戦利品の大福を片手にぶらぶらと屯所内を散歩していた。なんだ豆大福か。俺はよもぎが好きだって言ったはずなんだけどねィ。ふと見上げた空は橙と赤と紫の入り混じったような不思議な色を空気に映していた。鮮やか過ぎるものは、恐怖すら感じる。昔そう言っていたのは誰だったっけ。少し立ち止まって考えては見るものの、上手く思い出せない。もしかしたらどこかの書物で見かけただけかもしれないと沖田は思い、再びその足を歩める。
道場の近くまで来ると、その縁側でひとり刀の手入れをする土方の姿に気付いた。正直、今日はもう体力は使いたくはない。腹も減ってるし。気付かれないように右折しようとも考えたが、それもなんだかあいつから逃げるみたいで癪だった。わざと足音を立てるように砂利を踏んで近づけば、土方が伏せていた顔を上げた。と、同時に煙草のけむりがゆらゆらと上へ昇る。沖田は少し顔を顰めた。苦い。

「どうした」
「なんでも。ただ土方さんが隙だらけだったんもんで」
「お前もな」

ゆらゆらと立ち上る煙草のけむりを目で追っていると、それに気付いた土方がそれを地面に落とし、草履の裏でもみ消した。

「煙草、別に俺ァかまいませんぜ。もっとニコチン摂取して積極的に寿命縮めてくだせェ」
「死ね」
「いやお前が死ね」

煙草のけむりがどうとかより、むしろ土方に気を使われているような気さえして、沖田は違和感を覚えた。やめろと言われてやめるようなやつだっただろうか。鳥肌。それを拭うために、大福を包んであった紙で鶴を折る。折り紙は昔、姉のミツバがいろいろと教えてくれたので、沖田は嫌いではなかった。あの頃は端と端とを折り合わせるだけのことが酷く難しく、何度も自棄になって諦めていたものだ。慣れてしまえばこんなにも簡単なことだというのに。

「なんだ、結構うめェじゃねェか」

土方は刀の手入れをする手を止めて、いつのまにか沖田の手元を覗き込んでいた。小さな紙で折られた鶴は所々にしわがよっていたものの、十分な出来だった。羽の先が潰れてしまっているところを除けばの話だが。
折ったばっかりの小さな鶴を手のひらでくるりと転がして、沖田はある言葉を思い出していた。「しっかり折ってあげないと、飛べないでしょう」手のひらの中の鶴はあの鶴とは違い、羽の先がよれてしまっていた。これじゃあ、飛べないのよ。そう言っているようで、むしろ言われているようで、沖田はその手のひらをぐしゃりと握った。ただの紙の塊となったものをズボンのポケットに突っ込む。「とんだ悪趣味だな」呟かれた土方の言葉は聞こえないふりをした。


沖田がそれからもう一度台所へ戻れば、山崎が大鍋と格闘しているところだった。にんじんがひとつ、まな板の上から転げ落ちる。その切り方もてんでばらばら。大きいものがあったり、小さいものがあったり。切り口もまっすぐだったり、こっちはななめだったり。そのにんじんを拾い上げて、水で洗って鍋に戻してやると、山崎はようやく沖田の姿に気付いたようだった。

「まだ飯はできねェんですかィ?」
「あともうちょっとのはずなんですけど…あ、大福食べました?あれ美味しかったでしょう?」
「豆大福の豆以外ならうまかった」
「あれ、沖田隊長って豆大福きらいでしたっけ?」
「よもぎの方が好き」
「じゃあ今度買っておきますね」

ぐつぐつと野菜を煮込む音が鍋から聞こえた。天井では小さな電球が頼りなさそうにゆらゆらと光を灯している。台所に入るのは初めてではなかったが、なんだか初めて入った空間のような錯覚に陥った。どこか違うにおい、どこかが足りない空間。明らかに何かが欠けているのに、沖田にも山崎にも、それが何かは理解できなかった。思い出せなかったの間違いかもしれない。でもそれでよかった。しばらくそのまま二人で鍋を眺めていると、山崎が突然「あ!」と大声を上げてあたふたと割烹着を脱ぎ始めたが、沖田はそれを隣でただぼうっと見ていただけだった。

「俺、副長に呼ばれてたんでした!やばい殺される…沖田隊長、味付けできます?出来ますよね、お願いしますね」
「土方さんすげェ怒ってやしたぜ」
「ギャアアア」
「うそ でさァ」

脱いだ割烹着を沖田の手に押しつけると山崎は素早く暖簾をくぐり、やがて足音も聞こえなくなった。ひとりぽつんと残された沖田は、机の上に出された調味料の瓶たちをひとつずつ手にとって眺めた。味付けを任されたことなんて一度もない。況してや料理すらまともにしたことのない沖田には、そのラベルがなかったら「さとう」と「しお」の見分けすら付かないだろう。軽く瓶を振ってみても結果はほとんど同じだった。それにしても肉じゃがって、甘かったっけ?記憶をたどっても思い出されるのは「うまかった」だけで、甘かったとか辛かったとかしょっぱかったとか、味付けの細かなところをしっかりと思い出せるほど、沖田は器用ではなかった。ただ、記憶では「うまかった」のだ。肉じゃがだけじゃなくて、その他の料理も、何もかもが。ぐつぐつ。蓋をするんだっけ、それとも火を止めるんだっけ。飽きるほど見てきた工程の一つたりとも思い出せない自分に、思わず笑えてきた。ことん、「さとう」を取ろうと伸ばした右手に違う瓶が触れた。「しお」でも「こしょう」でもなく、ラベルも何も貼られていない他のものよりも随分と小さなガラス瓶。手にとってそっと振ってみる。他のものと明らかに違う。もっとさらさらしている、もっとぱさぱさしている。もっと、もっと。もっと、美しい。

そして気付いた。この中身が"誰"なのかに。忘れようとしても忘れられないのは、どこにいても何をしてても彼女がいたからだった。料理をつくる彼女、よもぎ大福が好きな彼女、煙草が苦手な彼女、そして鶴を折る彼女。そのあまりにも生活の中に馴染んでしまっていた姿を、そう簡単に剥がして捨て去ることが出来ないのを沖田は知っていた。だから、残した。この小さなガラス瓶の中に彼女を少しだけ、閉じ込めたのだと。二度と忘れないように、今度は消えてしまわないように、きつく蓋を閉めた。この骨は戒めだ。こんな小さなものでさえ守れなかったのだ。
沖田が少し力を加えれば、きつく閉めたはずの蓋は簡単に開いてしまった。なんだ、蓋を閉めたやつも案外ひょろっちいな。そう笑えるほど、まだ彼には余裕があった。彼女が死んで、ちょうど一か月。
一か月の姿からは大分違ってしまった彼女を、沖田はさらさらと自分の手のひらに出した。指の隙間から僅かにこぼれ落ちる。ぎゅっと握りしめれば、少しは温かいような変な気さえした。躊躇いもせず、窓からその手を差し出す。ぱっと拳を開けば乾燥していた手のひらから、ぱらぱらと白い彼女が舞った。これでいい。沖田はそっと呟く。もう一度。これでよかった、と。一か月前は桜が咲いていた。今は緑に囲まれたここで。

手を洗って、ひとりぐつぐつと鳴りつづけていた鍋の火を止めた。ほとんど空っぽになった小さなガラス瓶が沖田の目に留まる。底にほんの少しだけ残る白。
もし、これを飲んだら忘れずにいられる?でもねェ、あんたはそんなこと、望みはしないでしょう。

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