ユズル達のところにお邪魔した翌日、エレベーターが開く音で目が醒めた。今が何時かはわからないが、ここに突然来る人物なんて限られている。二宮隊だったら追っ払おう、東だったら…東だったら、もうちょっと寝かせてもらうよう頼もう。ソファの上で身を丸め直し、毛布を頭まで被る。雑な足音には聞き覚えがあるようで、ないようで、なんだか酷く懐かしい気がした。
「おい」
 誰かが私を呼ぶ声が聞こえるが、夢なんだか現なんだかわからないし、眠たくって声が出ない。こういうときはいつもどうしていたんだっけ。もぞもぞと毛布から声の先へ腕を伸ばす。何にも触れないことを不思議に思って、それからだらりと腕の力を抜いた。宙ぶらりんになった腕はぎりぎり床には触れない。眠たくて熱がこもった指先で、優しく遊んだのは誰だっけ。花の匂いを優しく纏った、ぶっきらぼうな指は、だれだっけ。

 誰かが床に座る音がした。それからしばらくなんにもなくて、ああやっぱりこれは夢なんだと確信する。そりゃあそうだよね。だって彼はもういないんだもん。私を庇って死んだんだ。だからこのざらついた指は彼じゃないし、息をする音も彼じゃない。全部全部、都合の良い夢だ。馬鹿みたい。何年も経って結局私は一歩も動けないままだ。それでも良いかと思ってしまうくらい、心地の良い夢だなあ。このまま醒めなければ良いのに。そうしたら、きっと私もそっちへ行けるのに。ねえ、   。私はやっぱり、なんにもできないやつだよ。一人じゃなんにもできないよ。だから一緒に連れて行ってよ、
「…何泣いてんだよ。おい、起きろ」
「ん……」
「あんた、いつもソファで寝てんのか? 毛布暑くねえのかよ」
「…わたしも、つれて、って、」
「嫌なこった。起きろ!」
「わあ!?」
 突然耳元で大きく響いた声に驚いて飛び起きる。バクバクと心臓が鳴り響き、目の前の状況が飲み込めない。宙ぶらりんだった指の先には彼によく似たざらついた指が繋がっていた。びっくりして咄嗟に手を跳ね除けてしまい、それからハッとする。目の前の少年は何も言わない。もちろん、夢の中で見た人物も何も言わなかった。
「ど、どうして…」
「あ? なんだっていいだろうが」
「ゆ、ゆずるは」
「いつも一緒な訳ねーだろ」
 不機嫌そうなのか、不機嫌なのかわからない。ぶっきらぼうなのは彼の標準装備なのかもしれないがそれを見極められるほど彼のことをよく知らなかった。逸る心臓の音を鎮めるべく深呼吸を数度繰り返し、それから目の前の机に置かれている花にぎょっとする。シンプルな真白の花瓶の中に、花が一輪。アネモネだ。
「もう昼だぞ、いつもこの時間まで寝てんのか?」
「あー…えっと、たまに…」
「ハイ嘘。別に昼まで寝んのも悪かねえだろ。仕事はきっちりしてんだろうしよ」
「学校は…?」
「あ? 冬休みだよ」
 ふゆやすみ。聞き慣れない単語に思考が数秒動きを止める。私も彼も、違和感のある夏の装いだった。
「用があって来た訳じゃねえ。邪魔はしないからいてもいいか」
 ぱち、ぱち。何回か目を閉じたり開いたりしても、彼の視線は真っ直ぐ私にぶつかったままだった。どうしてこんなところに、という疑問は拭えなかったが、少なくともこれは私のためではなく彼自身のために行われている質問だったのですぐにイエスの返事をする。頼むような言葉を使ったことに驚いた。本が好きそうには思えないし、サイドエフェクトに関しても他人に頼るつもりはないと言い切られてしまっているため、私にしてあげられることはほとんど無いに等しいが、それでも彼がここを居心地の良い場所だと思ってくれたのならそれは嬉しい。活字ばかり読んでいたら疲れるだろうと昔置いていかれた漫画がいくつかあるのでそれを引っ張り出してこよう。
「お花、ありがとう」
「おー」
「漫画読む? 私は読んだこと無いけど、もらったのがあるの」
「読む」
「じゃあお茶を淹れてほしいな。キッチンはそっちね」
 素直にキッチンへ向かってがさごそと戸棚を漁る姿を可愛いと思う。部屋の奥からダンボールに入ったままの漫画を机の近くまで引き摺って持っていけば、電気ケトルからお湯をマグカップに注ぐ姿が見えた。後ろ姿が特にそっくりで、懐かしさすらおぼえてしまう。そうだ、冷蔵庫にカルピスがあるんだった。
「冷蔵庫にカルピスあるよ」
「ん。あんた、暑くねえの?」
「ふふ。温かいのをつくってくれたのはそっちじゃない」
 気まずさからか、気恥ずかしさからか逸らされた視線にくつくつと喉を鳴らして笑った。冷たい飲み物が得意じゃないことをどこで知ったのかはわからないが、彼の優しさがマグカップから湯気と一緒に滲み出ているようでとても嬉しい。彼が飲むグラスには氷が入っていて、対する私のマグカップは火傷しそうになるくらい熱い。この温度差が私には酷く心地よいように思えたし、彼にとってもそうであれば良いと願う。

 先程の夢の話題を口に出さない彼は優しい。なんの会話をする訳でもなく、ただ穏やかな時間が流れていた。突然訪問してきたと思えばここにいたいと言われ正直驚いたが、彼のサイドエフェクトに上手に反応していない私の傍にいるのが楽なのだろう。それが良いことなのか悪いことなのかは判断できかねるが、こうして彼が安息を求めてくれるのは嬉しい。
 漫画を捲る音と、キーボードを叩く音。氷が溶けてカランとグラスにぶつかる音と、ペンが走る音。ふたりの呼吸。たったそれだけが、この部屋の全て。


 次の日から彼は、昼になるとここに来るようになった。毎日律儀に花を一輪だけ持って、何をするわけでもなくここで同じ時間を過ごすだけ。夜になれば帰宅し、また次の昼へと繰り返し。次第に少しずつ会話が増えて、時間とともに知らないことが減っていった。

「読み終わった」「面白かった?」「フツー」
「宿題はいいの?」「あー…」「明日持っておいで。一緒にやろう」
「あんた鋼に戦術教えてたらしいじゃねえか」「戦術だけね。紙面上での講義だよ」「…あっそ」
「いつもお花ありがとう」「メシ代にしちゃ安いだろ」「ふふ、確かに」
「鳩原と仲良かったのか」「うん。可愛い後輩」「へえ」
「今朝さ、二宮が来てって…」「ア? 最悪だな。俺呼びゃあいいだろ」「次からそうするね」
「腹減った」「何食べたい?」「…お好み焼き、持たされてんだよ。食うだろ。食えよ」
「退屈じゃない?」「おー」「…ん、それならいいんだ」

 ひっきりなしに彼と会うようになってからあっという間に一ヶ月が経過した。さすがに毎日長時間という訳ではないが、一日に一度は顔を出してくれる。冬休みは終わっただろうし、ランク戦や防衛任務だってあるだろうに。お互い飽きもせず、東や二宮には呆れられつつ。私はみるみるうちに彼に依存していった。彼が来るのを心待ちにするようになってしまった。それがいけないことだと知っていて、止めることはできなかった。対する彼は冷静で、男子高校生だと言うのに色恋沙汰のひとつも話題にあがらない。彼の場合はそもそもサイドエフェクトのせいで人付き合いからしづらいというのがあるだろうけれど、鋼やユズルでさえつつけば何かしら出てくるんだけどな。そう思いつつも、私はきっと、彼のこういうところを気に入っていた。
 恋情ではなかったように思う。家族に向けるような、それでいてもっと冷たいような。そういう想いだった。

「なあ、もし俺が遠征行くって言ったらどうする」
「えっ。行くの?」
「もしって言ったろ」
「うーん……どうもしない、よ。ここで待ってるよ」
「そうか」
 なんてことない、いつも通りの会話展開だと思った。私達は時折ぽつりぽつりと話したいことを話しては、一つ二つ返事をしてすぐに会話がなくなる。それを一日の中で数回繰り返すだけだ。だから今日もこの話題はこれで終了だと思った。
「鋼も選ばれっかもしんねえ」
「…鋼も?」
「あー…多分俺も行くんだよ」
 途端に声が出なくなってしまった私を疑問に思ったのかアプリゲームに向かっていた視線がこちらを向いた。次はどちらが先に会話を始めるか。どちらが先に落ちていくか。電話やトリオン体時の通信では聞こえない、無言の会話が行われている。ここを超えると、私達はきっと、楽になる。
「そっか。気をつけてね」
「………俺、帰るわ。もう遅えし」
「うん。また明日」
「おー…あ、来週から来れねえわ」
「えっ」
「じゃあまた明日、な」
 ひらひらと手を上げて去っていく背中を力なく見送った。エレベーターの扉が閉まるまで、私の喉から声はつくられない。大事なときに何も出来ないのはあの日からずっと変わらないくせに、浅ましい気持ちばかりが肥大化している。九つも下の子供に、期待も、憧れも、希望も、抱いてはいけない。

「わかってるよ」

 自分の無力さくらい、弁えているつもりだよ。


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