「記憶処理の交渉…? まさか何かしでかしたんじゃないだろうな」
「やだなあ鬼怒田さん。私が優秀なの知ってるくせに」
「今更何を忘れたいというんだ」
「私じゃないよ、忘れるのは」



「……それは避けられないのか。わしに言うことじゃないだろう」
「うん。ごめんね。避けられない」
「…許可はできん」
「いいよ。きっとすることになる。ありがとう鬼怒田さん。このことはふたりの秘密ね」



平日の昼下がり、曇り空には太陽が見えない。隣りに座っている自称実力派エリートである彼は多忙で、今日は久しぶりのオフだと言う。オフだと言っても未来のために最善を尽くそうとしてしまう生真面目で神経質な少年を休ませるのが今日の私の仕事である。空っぽの隊室の畳の上、壁に寄りかかって眠る彼の前髪にそっと触れる。首にかかったゴーグルが切なさを帯びていて、起こさない音量で「ごめんね」と落とした。

カメラを無音に設定できるアプリで彼の寝顔と自分を画面内に切り取って保存する。触れ合う肩、浸食する体温、生身の彼が呼吸をする音。袖から伸びた真っ白い手首。寝顔は小さい頃から変わらないなあ、と溜め込んだフォルダをスクロールする。随分切り取ってきたものだな。

「ん…あー…おはよ、なまえ」
「うん、おはよう悠一。時間的にはまだ寝れるよ」
「いや。いいよ、起きる。ていうか今何見てたの?」
「ないしょ。コーヒーにする?ココアにする?」

ここあ、とふやけた言葉を受け取って電気ケトルに水を入れた。湯を沸かしている間にマグカップに粉を入れた。ふたつしかないマグカップと座布団。物が少なすぎて、室内が広く寂しい。昔はもっと人がいて、私も悠一もずっとずうっと笑っていたのにな。用意し終えたマグカップをテーブルに置いて、彼の隣にぴったり座る。こめかみを抑えながら険しい顔をする悠一をよそに、ブラックコーヒーを飲み込んだ。にがいなあ。

「きょうやすみなの?」
「んーん。悠一が休まなさすぎて、これが仕事なの」
「ええ…誰の指示…?」
「ボス」

ボスかぁ、とやけに納得したように吐き出して、それからココアを啜っている。目を伏せて何かを考えこむような横顔がうつくしい。睫毛、長いなあ。若いから肌も綺麗だし。

「…なまえ、」
「うん」
「なんで決めちゃったの…?」
「はは。勝手に見ないでよ」
「みたくなくてもみえるんだよ…」

溜め息と一緒に吐き出された弱々しい言葉に笑ってやれば、いやいやと首を振る幼い子供がいた。次の誕生日で目出度く20歳になる悠一は、未成年にしては大人びすぎているし、汚い世界を知りすぎている。それを理解しようとも、否定しようともせず、ただ見ている。そうすることでしか生きられなかったこどもだったのに、もう20歳か、そうか。私の何倍も、成長がはやいなあ。

どうにもできないことを彼も私も知っていた。だから彼はそれ以上は何も言わない。唯々私の手を弱い力で握り、俯き、震えるだけだ。畳にぽたりと水が落ちて、マグカップから湯気は覗かなくなってしまった。立ち込めたくらい空気の中で、私達はふたりきりであることが幸福だと知っている。

知っているから、おびえている。すぐそこにある幕引きから、彼も私も逃げられない。叶うなら、どうか忘れないでほしい。

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