「おねえちゃ〜ん、アキが帽子ないって」
「えっ? あ!」

朝7時、もう家を出なければいけない時刻に夏が私に訴えた言葉に冷や汗をかく。そうだ、そういえば昨日秋の帽子を持っていって、それからどうしたか記憶が無い。帰り道は二人と手を繋いで帰ってきたのだから両手は塞がっている。その前に、どこかに落としたのだろうか。今から広場に寄ってふもとまで降りるとなると、どうしても遅刻してしまう。帰りに寄ろうと決めて秋には自分のキャップを被せてあげた。

「おねえちゃんの!」
「ごめんね、帰りに探しに行こう」
「うん!」

夏が羨ましそうに秋の帽子を見ていたものだから思わず頭を撫でてから今度こそ、と家を出る。二人を幼稚園に送った後は自分も学校だ。幼稚園から学校まで徒歩30分程のそこそこの距離があるため、幼稚園にお願いして自転車を置かせてもらっている。8時からしか受け入れをしていない幼稚園にふたりを送り届けてから歩くとなると自分が遅刻してしまうからだ。我が家の事情を理解して協力してくれる先生方には頭が上がらない。門で園児のお迎えをしていた担当の先生に二人のことをいつも通りお願いしてから学校へ向かう。

夏や秋は理解をしていないが、私が二人の年齢だったころとは随分この国は変わっていた。武力による戦争が根絶され、ヒプノシスマイクという人間に作用する不思議なマイクを使用して領土争いが開始されたことは記憶に新しい。男尊女卑の余韻が抜けきらなかった国の事情が一瞬にしてひっくり返ってしまったあの日の報道を、私は一生忘れられない。女性が優位だ、と言わんばかりの今の政治は正直そんなに好きじゃない。一人前の、ひとりでも立派に生きていける成人女性だったのならば喜んでいたのかもしれないが、私はそうではない。それに、夏は女の子で秋は男の子だ。二人の未来がどうしたって別れてしまう可能性の高い未来を未だ受け入れきれずにいるのも事実。私だって高校を卒業したら中王区で働くことになるだろう。そもそも、そっちに住まなくてはいけなくなるのかもしれない。母の同業者を名乗る人等に何度も声をかけられ、うんざりしている。どういう神経を持ち合わせていれば母と同じ仕事に就かないかと提案できるのか私にはわからない。

「みょうじ、顔やべぇよ」
「わ。山田くん。おはよう」
「ん、はよ。悩み事か?」

駐輪場で顔を合わせた同じクラスの山田くんにそう言われて、ううんと首を横に振る。なるようにしかならない。対応して生きていくしかない。今だってそうして生きているんだし、考えてもわからないことはわからないのだ。先程まで考えていた思考を頭の隅に置いて、山田くんと教室までの雑談を楽しむことにする。どれだけ急いで自転車を漕いでも遅刻ギリギリにしか学校に着けない私と、朝起きるのがめっぽう苦手だという山田くんは駐輪場でほとんど毎朝顔を合わせる所謂遅刻仲間だ。事情を学校側に伝え、多少の遅刻を許されている私と山田くんでは、扱いが違ってしまうが。

「そんでさぁ、にーちゃんがよお」

山田くんとはもう一つ共通点がある。それは彼も私も置かれている家庭環境が少し似ていて、なによりきょうだいを愛していることだ。山田くんの口から出てこない日がない彼の兄のことも、うざい可愛くないと言いながらもなんだかんだで可愛がっている弟のことも、彼は愛してる。無論、私も夏と秋を愛している。家族を大切にするひとに悪い人はいない。…とは言い切れないが、山田くんは確実に良い人だ。唯一の友人でもある。

「そういや、お前んとこのチビ達元気か?」
「うん。おかげさまで二人とも元気だよ。今日もいい子で幼稚園行ってくれたの」
「ん。ならよかった。…なんかあったら手貸すから、言えよ?」

恥ずかしそうに視線を逸らして頬を掻きながらそう言う山田くんに思わず笑ってしまう。照れ屋さんだな、とも思うし 恥ずかしいのにそう言ってくれて嬉しいという気持ちもある。山田くんのおうちの事情を詳しく聞いたことはないが、兄弟三人暮らしで、孤児院の出だとは聞いていた。これも風の噂で誰かが話しているのを耳に挟んだだけなので、事実かどうかは知らないが、私にとっても山田くんにとってもそんなことはどうでもよかった。兎にも角にも、彼が私の心配をしてくれる優しい友人だというのは確かだからだ。

「なっ、笑うなよ!人がせっかく…!つうか兄ちゃんがみょうじのこと心配しててだな、べつに、俺は…!」
「ふふっ、あはは! も〜、山田くん、そんなに焦らなくたって、」
「焦ってなんかねえ!」
「そうだね、ありがとう…ふふ」

笑いが止まらない私を山田くんが軽く小突いて、今度は二人で顔を見合わせて笑いあう。玄関で立っている先生に早くしろ、と怒られてしまうまで私達は笑いあっていた。



楽しいとも思えない学校を終えて急いで教室から飛び出す。終業時刻が15時30分、スーパーのタイムセールは16時からだ。二人のお迎えに17時までには行かなければならないし、今日は家に帰る途中にある広場に寄って秋の帽子を探さなければならない。来年には小学生になるとはいえ、夏も秋も他の子より比較的しっかりしているとはいえ、ふたりはまだまだ幼い子供だ。不自由をさせたくないし、夜更かしもさせたくない。18時半にはご飯を食べ始められるように、無駄にできる時間はひとつもない。

「あらなまえちゃん、今日は早かったねえ」
「こんばんは!お迎えに来ました。自転車今日もありがとうございました」

両手いっぱいに買い物袋を抱えた私を見てふんわり笑う先生に会釈をする。幼稚園の玄関にいた園長先生にお礼を言って夏と秋の帰る準備を手伝う。今日何があったかを話したくて仕方のない二人を上手く準備に誘導するのにも慣れたものだ。もう一度お礼を言って幼稚園を後にする。歩いて1時間もかかる場所に家があるものだから、私はともかく二人には相当な負担をかけてしまっていると思う。隠居生活だと言われても仕方ないような位置に住んでいることに、二人は何も言わない。文句を言われないことは有難いのだが、疑問に思われた時にはきちんと答えてあげられるようにしておきたいものだ。それにはまだ、私の語彙力も、精神年齢も、二人の理解力も足りないのだ。

「あー!!」
「うわっ!アキうるさい!」
「ナツ!見て!」
「…あー!!」

山へ登る入口で突然二人が叫んだ。驚いて指さす先を見てみれば、いかにも柄の悪い男の人が落ち着きなく一定の距離を行ったり来たりと歩いていた。二人の声にバッと顔を上げたその人は見る見るうちに表情を笑顔に変えてずんずんとこちらに歩いてくる。近くで立ち止まったかと思えばバチりと視線がぶつかった。二人に向けていた視線とは打って変わって、冷たい、刺さるような視線に思わず身じろいでしまう。緑とも紫とも言えない不思議な瞳に、このままだと殺されてしまうんではないかと思ってしまうくらいだ。

「…アンタは?」
「お言葉ですが、どこの誰かもわからない人に名乗ることはできません」
「ハァ? お前、」
「わああ、おねえちゃん!違うよ!」
「アキ…?」

私と男の間に慌てて割って入った秋がぶんぶんと首を横に振る。何が違うのかもわからず、どうしてその男を庇うのかもわからず困惑していれば夏に袖を引かれた。視線をやれば、彼女も同じく首を横に振るだけ。

「だいすにいちゃん! この人はね、昨日言ってたおねえちゃんだよ!」
「おねえちゃん、この人がどろだんごのおにいちゃん!」

パチ、パチ。私と男の目が大きく開かれ、瞬きをする瞬間は同時だったように思えた。この人が、と警戒態勢をさらに引き上げる私とは裏腹に先程までの指すような視線はどこへやら、なんだよお、と屈託なく笑う目の前の男。

「いやあ、すまねえな! 俺は有栖川帝統ってんだ。よろしくな」
「……みょうじなまえです。夏と秋の姉です。先程は失礼なことを申し上げてすみません」
「だいすにいちゃんなんでここきたの?」

そう。それだよ。と心の中で突っ込みと、秋への称賛を送る。一応悪い人ではなさそうだが、未だ警戒を解いた訳ではない。母が生前していた職業や、父の犯していた失態のせいで、私達に会いに来る人は少なくない。この家ならバレないだろうと高を括っていただけにすぎないかもしれないのだ。

「おら。これ昨日忘れてったろ」
「あ!アキの!」
「昨日の夜あそこに戻ったらこれが置いてあったからよ、ナツんだと思ってな」
「それはおねえちゃんが忘れてったアキのやつだよ!リボンの色がちがうの!」

有栖川さんは夏に帽子を渡し、それが秋の手に渡る。リボンの色が赤と青で異なる揃いの麦わら帽子は二人のお気に入りで、私が昨日秋に被せようとして持って行き、忘れて帰ってきてしまったものだった。素直にお礼を言う二人に遅れて私も慌ててお礼を言い頭を下げる。有栖川さんは気にしていないとでも言いたげに笑ってくれた。

ではこれで、と告げようとしたところで両手に持っていた重みがなくなる。ひょい、と私から買い物袋を奪った有栖川さんは、秋が悪戯を仕掛けた時と同じ表情で私の顔を覗き込んでいた。

「なあ…これ、上まで運ぶぜ。重いだろ」
「いえ、でも…」
「あっ!いや、そのよぉ、その代わり、と言っちゃあなんだが…」

言いにくそうに視線を彷徨わせる有栖川さんに三人揃って首を傾げる。秋の頭から帽子を取って自分でかぶり、秋に麦わら帽子をかぶせてやったところでようやく有栖川さんが口を開いた。

「今日…泊めてくれねっすか?」

は、と声が地面に落ちた。

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