雪は溶け、季節は春へと移ろいだ。
暖かな陽気に鳥は歌い、花は可憐に綻ぶ。
季節に浮つかされるのは人々も同じで、貴族達は社交界や晩餐会を開いては楽しむ。
そんなものに一生関わることはないと思っていたリヴァイは、エルヴィンの言葉にあからさまに顔を顰めた。
「夜会に、接待だと…?」
来月、王都で開かれる夜会に調査兵団も招待を受けた。
悪評ばかりの彼らに声がかかることは少ないが、その滅多にない機会は兵団の今後を左右しかねない重大なものだ。
貴族方との交友を深め、気に入ってもらえれば出資をしてもらえることもある。
"招待"といえば聞こえはいいが、実際は"接待"に行くようなものだ。
「接待ってのは上層部の人間が行くもんだろ。下っ端の俺がやることじゃねえ」
「年始の壁外調査におけるお前の討伐数が評判になっていてな。主宰が是非その優秀な兵士に会ってみたいんだそうだ」
貴族共の考えることはちっともわからないと、リヴァイは舌打ちをする。
「上手く関係を築いて出資者を集めることは今後の兵団にとって必要不可欠だ。今回はお前の評判が好転のきっかけになるかもしれない…これは俺からではなく団長直々の命令だ」
「はっ…ゴロツキ上がりの兵士が行ったところで、豚共の品位とやらを更に下げるだけだと思うがな」
王都行きの拒否権はないらしい。
地下から出たかと思えば今度は王都での夜会とは、目まぐるしいったらない。
望んでいない展開に皮肉っぽく鼻で笑った。
「言葉遣いは気を付けてほしいものだな…特に、淑女方の前では」
「貴族の女共とベラベラ喋るつもりはねえよ」
「お前にそのつもりがなくとも向こうは話しかけてくるかもしれんぞ。貴族の娘さん達は饒舌だからな」
「女の機嫌取りなんざ俺ができるわけねえだろ」
「ふむ……」
エルヴィンは暫し思案したあと、思いついたように言った。
「では初めから同伴を連れていけばいい。そうすれば女性達も無闇に話しかけてきたりしないはずだ」
「同伴…?」
「お前にはいるだろう?とびきり可愛らしい同伴者が」
15 壁際の口付け
柔和な笑みを見せる執事は丁寧な所作で扉を開けてくれた。
目に入った光景にnameは目を見開く。
きらびやかな装飾や豪華な料理。立ち並ぶ給仕に、美しく着飾ったたくさんの人々。
そこは彼女がこの世界で見てきたどんな場所とも違う空間だった。
まるで映画のワンシーンのようで、思わず見入ってしまう。
「どうした」
立ち尽くしているnameにリヴァイは怪訝そうに声をかけた。
ノブに手をかけたままの執事も不思議そうな顔をしている。
「あ…えっと、何だか…別世界みたいで」
「…お前が言うと例えでもないがな」
そう言ったリヴァイはこの場に臆した様子もなく普段通り、いや、いつにも増して機嫌が悪そうだ。
けれど、その格好は普段とは明らかに違う。
小柄な体格に寸法を合わせられたタキシード、胸ポケットに挿されたチーフ、袖口から覗くカフス、光沢のある靴。
締められたタイを時々煩わしそうにする。
その全てが今夜のために用意されたもの。
普段目元にかかっている前髪は整髪料で固められ、彼の端正な顔は惜しげも無く晒されている。
初めて見るリヴァイの礼服姿に、nameは王都へ来る馬車の道中ずっとドキドキしていた。
「私なんかが同伴でよかったのかな…場違いじゃない?」
同伴させる理由をリヴァイは彼女にあまり語らなかった。
ただついてきてほしいと言われ断る理由もなかったnameは咄嗟に頷いてしまったが、このきらびやかすぎる空間に不安になる。
リヴァイは彼女へと視線を移す。
彼が礼服ならば、nameもしっかりとドレスコードを守っている。
アップに結われた黒髪、幼さを隠した化粧、晒された肩は白く、その白さに淡紅色のイブニングドレスがよく似合っている。
肩同様に晒されているデコルテには彼が贈ったムーンストーンが輝いていた。
「誰も場違いなんて思わねえだろうよ、今夜のお前は…」
───綺麗だ。
そう言いかけたけれど、この空間でその言葉はあまりにキザな気がして止めた。
代わりに「行くぞ」と声をかけ、肘を曲げて隙間を作る。
nameはその仕草に少し頬を染め、慣れない動きで隙間に腕を通した。
「リヴァイ」
会場に入ると、すぐにエルヴィンが二人に気づいた。シャーディス団長や他に何人かの分隊長もいる。
「やあ二人とも。name、今夜はいつにも増して綺麗だな」
エルヴィンは白い歯を見せて笑う。
恥ずかしげもなく褒めた彼に、nameははにかんで挨拶をした。
「こんばんはエルヴィンさん。今夜はお誘い頂きありがとうございます」
「君がいれば我々調査兵団にも花が添えられるというものだ」
「フン…」
相変わらずnameの前で紳士ぶるエルヴィンが気に食わなくて、リヴァイは鼻を鳴らした。
先ほど自分が言い淀んだ台詞を彼はさらりと言ってのけた。
リヴァイが視線を逸らすと、団長達と談笑していた男と丁度目が合った。
男は団長に会釈をすると、こちらへ向かってきた。
「エルヴィン分隊長、そちらも兵団の方ですか?」
「アルフレートさん。彼が噂の兵士のリヴァイです」
「おお、あなたが!私はアルフレート・シュリーフェンと申します。今夜はご出席頂きありがとうございます」
アルフレートは感激した様子でリヴァイに握手を求めた。どうやら彼がこの夜会の主宰者のようだ。
リヴァイがどういう対応をとるか不安に思ったnameはちらりと横目で彼を見る。
彼は表情こそ無表情だが、静かに握手を交わして軽く頭を下げた。
「お会いできて光栄です」
そう言ってアルフレートは隣にいるnameにも手を差し出した。彼女はできるだけ自然に微笑んでそれに応じる。
アルフレートはnameの顔をじっと見つめ、リヴァイに視線を戻すとにこやかに笑った。
「美しい奥様ですね」
「えっ」
nameは思わず目を丸くする。
「奥様」という響きが自分に向けられてるものだとわかって、訂正すべきかどうか迷う。
しかし、リヴァイはこれまた表情を変えずに言った。
「ええ、まあ」
「!」
場が場なだけに、これ以上動揺したりしてはいけないと理解したnameは言葉を発しなかった。
帯びていく顔の熱を自分では抑えられない。
そんな様子の彼女を見てエルヴィンは可笑しそうに笑った。
「さあ、どうぞこちらへ。ワインでも嗜みながら壁外のことについて聞かせてください」
アルフレートに促され、彼らはグラスを手に取った。
***
アルフレートは貴族でも珍しく、壁外に興味がある男のようだった。
彼はトップの討伐数を誇るリヴァイに対してあれやこれやと質問をする。
こうなることが想定できていたらしいエルヴィンは、間に入って会話を盛り上げた。
リヴァイは内心ではちっとも楽しくないのだろうが、不機嫌さは消し、丁寧な口調を心がけて応じていた。
しっかりと敬語が使えているリヴァイにnameはかなり驚いた。
「……すみません、少し失礼します」
nameは控えめに一声かけるとその場から離れる。
慣れない空間やたくさんの人に酔ってしまったらしく、少し気分が悪かった。
会話に夢中の彼らは彼女の退席を気にする様子はなく、リヴァイだけがnameの背を見送った。
(外の空気を吸いたい…)
慣れないヒールで歩きながら、nameは窓際へと進む。
そして、人気のないバルコニーに出た。
室内の熱気と外気の温度差にぶるりと肩を震わせる。
4月といえど夜はまだ肌寒い。
雲一つない空には月が浮かび、時折風の音が聞こえる。人の多さに酔っていた彼女にはちょうど良い静けさだった。
一息ついて気分も落ち着いた頃、ふと気配を感じて振り返った。
「失礼。月光に照らされる姿があまりにも美しくて、つい誘われ出てしまいました」
そう声をかけてきたのは貴族の男性。
丁寧なお辞儀をしながら品の良い笑みを浮かべる。
知らない人に声をかけられたことに戸惑い、nameはぎこちなく微笑む。
「まるで天使のような微笑みですね。よければ僕とお話してくれませんか?」
「えっ?いいえ、私は…」
「どうか断らないで。今宵の出会いは…運命かもしれない」
彼は歯が浮きそうな台詞を紡ぎながらnameに近づく。
優しい口調の中に逃すまいとする雰囲気を感じて後ずさろうとするが、彼は丁寧に、けれど素早くnameの手を取った。
そして、彼女の手の甲にキスを。
「!」
nameは思わず目を見張って身体をこわばらせた。
心臓が高鳴ったのはときめきではなく、知らない男性に突然触れられたことへの驚きと困惑のせいだ。
咄嗟に手を引こうとして思い出す。自分達の参加は兵団の資金集めの為であることに。
ここでこの人の機嫌を損ねてしまったら兵団にとって害になってしまうのではないか…。
そう思うと、捕われた手を引くことも、または振り払うことも憚られてしまった。
と、次の瞬間───。
nameの腕は横から伸びてきた手に掴まれた。
手の主は彼女を自分の後ろに隠すように立ちはだかると、貴族の男を睨んだ。
「リヴァイ…!」
主宰者と話しているはずの彼だった。
後ろにいるためその顔は見えないが、背中から不穏さが伝わってくる。
「な、何だ君は、失礼じゃないか!」
男は腹立たしそうに声を荒らげる。
けれど、どこか怯えているようにも見えるのは、リヴァイの牽制に気圧されたからかもしれない。
「…………」
普段のリヴァイならば、ここで皮肉たっぷりに言い返すところだろう。
しかし、今夜の彼は自身の立場を理解しているためにそれを自制しているようだ。
口でこそ苛立ちを出してはいないが、彼の鋭い眼つきや雰囲気はその内心を雄弁に語っている。
剣呑な空気に耐えきれず、nameはリヴァイに声をかけようとした。
すると、ややわざとらしく驚いた顔をしたエルヴィンがバルコニーに現れた。
「これはフォン家のご子息様。険しい顔をしていかがされましたか?」
「この男が失礼な振る舞いをしたのだ!僕は彼女と語らっていたというのに!」
「ああ…それは大変失礼しました。そこの彼女は彼の同伴者でして、既に奥方なのです」
「なっ…そうだったのか?」
エルヴィンの言葉に信じられないという様子で男はnameを見た。
そして、自身の失態を理解した彼はバツが悪そうに視線を外す。
「結婚しているようには見えなかったのでね…失礼した」
そう言い放つと、彼は中へと戻っていった。
「よく手を出さなかったな」
男を見送ったエルヴィンは声音を落とす。
紳士の顔ではなく、調査兵団の分隊長としての顔だ。
「てめえがしつこく釘を刺したからだろうが……悪いが、俺はもう帰る」
「待て、リヴァイ」
エルヴィンの静止の言葉を聞かず、リヴァイはnameの手を引いて中へと戻ろうとする。
すると、丁度そのタイミングで強い風が吹いた。風に戸が煽られ、乱暴に壁にぶつかる。
他のバルコニーからも同様に強風が入ってきたため、室内の灯りの殆どが消えてしまった。
「真っ暗だわ!」
「早く灯りをつけんか!」
給仕や執事達は慌てて灯りをつけ直そうとしているが、天井にぶら下がっている蝋燭に火を灯すためには梯子が必要で、暗がりの中でそれを運ぶことに手間取っている様だ。
暫くは暗いままだろう。
狼狽える貴族達を掻き分けてリヴァイは進む。
引っ張られるnameは履き慣れないヒールのせいでついて行くのがやっと。
やがて人の少ない壁際までくると、彼は足を止めた。
「…リヴァイ?」
「…………」
声をかけてもリヴァイは無言のまま。
暗がりのせいで顔は見えない。
けれど、繋がれた手からはしっかりと熱が伝わってくる。
もう一度声をかけようか迷っていると、ふいに繋がれた手が上へと持ち上げられた。
その手は彼の方へ引き寄せられ、やがて、手の甲に───。
「っ!」
ぬるりとした感触が手の甲に走った。
そこは、先ほどあの貴族の男に口付けを落とされた場所だ。
「汚されやがって」
そう低く呟いたリヴァイの息が手の甲にかかる。
汚されたと言われたそこは、彼の舌によって舐められたらしかった。
リヴァイは驚きで固まっているnameの腰に手を回すと、自分の方へと引き寄せた。
部屋の奥には月明かりが届かないため、ここでは顔を近づけてもよく見えない。
けれど、息遣いで彼だとわかる。
「こんなことになるためにお前を連れてきたわけじゃない」
苛立ちの混じった声色。
nameを同伴者として連れてきたのは、自分が貴族の女達と話したくないためだった。
連れ立っていれば彼女も声をかけられることはないと思っていたのに…あんなにも堂々と口説かれてしまうとは。
この苛立ちは自分自身に向けたものだった。
そんな実情を知らないnameは、なんと答えたらよいかわからず眉を下げていた。
せめてもう一度名前を呼ぼうと口を開く。
しかし、次の瞬間。彼女の唇は塞がれ、言葉を紡ぐことはできなかった。
唇に伝わる体温と息遣い。
何をされたのか悟ったnameは大きく目を見張ると、反射的にリヴァイの胸を押した。
「やっ……!」
思わず声を上げそうになった彼女の頭を引き寄せ、リヴァイは再び唇を塞ぐ。
「今、悲鳴のような声が聞こえたが」
「この暗がりですもの、転んだんじゃなくて?」
近くにいる男女の声が耳に入って、nameはやはりリヴァイの腕から逃れようとする。
ここは夜会の会場で、周りにはたくさんの人がいる。
暗さのお陰で自分達の行為は気付かれていないようだが、それでも、大勢の人達の中でする口付けは言いようのない羞恥心と怖さがあった。
「っ…」
リヴァイにも今の声は聞こえたはずなのに、彼は繋がった唇を離すつもりはないようだった。どれだけ抵抗しても解放しようとはせず、寧ろ、自分と彼女の距離をより縮めるように抱き寄せる。
やがてnameは抵抗するのをやめると、代わりに彼のタキシードの胸元を掴んだ。
その手が震えてるのを感じ取ったリヴァイは、彼女の唇を優しく食む。
まるで緊張を拭い去るような、優しく、甘い口付けにnameは段々と、恐怖心とは違った胸の高鳴りを覚えた。
周りにはたくさんの人がいるというのに。
こんなところを見られたら恥ずかしいだけでは済まないのに。
胸は甘くくすぐられ、頭の奥は痺れていく。
nameの体の力が抜けてくると、リヴァイは彼女の唇を軽く舐め、舌を差し込んだ。
ぴくりと彼女の肩が跳ねる。
けれど、侵入してきた彼を抵抗することはもうなかった。
絡めてくる舌は何度と触れた合ったはずなのに、今夜のそれはいつもと違うような。
そんな気がするけれど深く考える余裕はなく、強く抱きしめてくる腕や吐息、繋がった唇から伝わってくる熱にnameはただ浮かされた。
リヴァイの手が背中を撫で、触り心地のいいドレスの上を滑る。
(だめ…これ以上は)
そう思ったが早いか。
「やっとか。仕事の遅い執事め」
蝋燭に火が灯されていくと共に貴族達の溜息が漏れた。
それに気づいたリヴァイはすっと彼女から身を引く。
至近距離でも見えなかった彼の顔が、徐々にはっきりとしていく。
やっと視線が絡んだリヴァイの眼を見てnameははっと息を飲んだ。
彼の眼がとても熱っぽく、物欲しそうに揺れて見えた。
無言のリヴァイにnameも言葉を発することはできず、ただ、彼の双眸に見蕩れていた。
「ああ、これで夜会の続きを楽しめますな。…おや?」
明るくなった室内に安堵の息を吐きながら、貴族の男は後ろを振り返って首をかしげた。
「どうしましたの?」
「いや、先ほどの悲鳴は後ろから聞こえたかと思ったのだが…気のせいだったか」
その言葉に女も後ろを振り返るが、彼女はさして気にしてない様子。
男は少々腑に落ちないようだったが、女に会話の続きをせがまれると笑顔を見せて彼女に向き直った。
先の暗がりの中で男は、確かに人の気配を背後に感じていたのだ。
けれど、後ろの壁際には既に誰の姿も、なかった。