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あの人の冷ややかな眼は怖い。
なのにどうしてか引力は弱まらず。
私はやっぱり彼に惹かれていて、この扉の前まで来てしまった。

皆が訓練に勤しむこの時間帯。
誰も周りにはいないのに、クラインは緊張で手が震えていた。
先ほど盗んだそれを鍵穴に差し込んで、ゆっくりと回す。

カチャリと、錠の外れる音がした。



10 無感情な漆黒



頭の芯が鈍く痛んで、重い。
発熱など何年ぶりのことかと、リヴァイは微睡みの中でぼんやりと思った。
地下にいた頃の方がずっと不衛生で、細菌やウイルスなんかに侵されやすかっただろうに。

(name…)

例えばガキの頃だって、風邪をひいて誰かに傍にいてほしいなどとは思わなかった。
弱みを見せれば付け込まれ、奪われる。
いつもどんな時でも、周りにある全てを警戒して生きていた。
なのに今は、nameが傍にいてくれたらどんなに気分が楽になるだろうと思ってしまう。

名医の薬より、丸一日の休暇より、nameの温もりが一番自分には効くのではなかろうか。
そんな風に思ってしまうことこそが重症かもしれない。


「…!」

リヴァイの眉がぴくりと動く。
誰もいないはずの隣の執務室に人の気配を感じた。
忍ぶように近づいてくる様子から、nameではないとわかる。
リヴァイは怠い脳と体に喝を入れて身を起こすと、素早く扉のそばへと移動した。

静かにノブに手をかけて、相手が最も近づく瞬間を待つ。
扉一枚隔てた向こうから、微かに人の息遣いが聞こえた。
リヴァイは躊躇わずにノブを下ろすと、勢いよく扉を開けた。

「!てめえは…」

目の前に現れたのは小柄な女。
nameとは違う亜麻色の髪が揺れた。
扉が開けられることを想像していなかったらしい彼女は、あまりの驚きに目を見張り、声も出せないようだった。

「クライン、これはなんの真似だ?他人の部屋に無断で入る趣味がてめえにはあるのか?」

威圧的なリヴァイの低い声に、クラインの目は恐怖の色を濃くした。
構わず、この不法侵入について問いただしてやろうと口を開く。
しかし、リヴァイの言葉に被せるようにクラインは叫んだ。

「好きなんです…っ!」

高く大きな声が頭に響いて、リヴァイは顔を顰めた。
そして、彼女の唐突な台詞の意味がわからず不機嫌な声を漏らした。

「あ?」
「私、リヴァイ班長のことが…」
「オイオイ、俺は今そんなことが聞きたいんじゃねえ。どうやってこの部屋に入った。鍵は俺とnameしか持ってねえはずだ」
「……すみません」

クラインはポケットから何かを取り出すと、躊躇いがちに手を開いた。
彼女の手のひらにあったのは、nameが持っているはずの鍵だった。

「盗んだのか」
「…………」

その無言は肯定を意味した。
昨晩の彼女の行動を思い出す。
あれは酔った勢いでなく、先の告白に付随していたのだと理解した。
そして、この不法侵入も同様に。
何にせよ、あまりに常軌を逸した行動だった。

リヴァイは深く溜息をついた。
目の前のクラインを蔑むように見ながら、一つの決断を下す。

「お前は班から外す」
「…えっ!?」

俯いていたクラインはばっと顔を上げた。

「昨晩のことは目を瞑ってやったが、今日のこれはどうだ?胸クソ悪いにも程がある」

クラインの手から取り返した鍵を、リヴァイは見せつけるように揺らした。

「鍵を盗んだことは本当に申し訳ありませんでした。でも班から外すなんてっ、それだけは許してください!」
「てめえの頭はまだ酔っ払ってるらしいな。これは決定事項だ。上が何を言おうと、クライン、お前は班から外す。妙な感情に振り回されて不法侵入するようなイカれた奴を置いておくわけにはいかねえんだよ」
「っ…」

リヴァイの辛辣な言葉が棘となってクラインの胸を突き刺した。
悲しそうに瞳を揺らして奥歯を噛みしめる。
肩が震えていた。

「私は…本当はこんな、悪い子じゃない」
「…なんだと?」
「私をこんな風にしたのはリヴァイ班長、あなたです。恋人がいることを知っても、nameさんへの深い愛情を垣間見ても、あなたへの想いは膨らむばかりなんです!自分でもどうしたらいいかわからないうちに、こんなところまで来てしまったんです!」

感情の高ぶりのためか、クラインの息は荒くなっていた。
涙を一杯に溜めてリヴァイに縋り付く。
nameとは違う女の感触に、リヴァイの体は再び拒否反応を示して粟立った。
距離を取ろうとして思わず後ずさる。

「てめえが作った感情を他人のせいにするんじゃねえよ」
「その通り、ですね…班長の言うことはいつも正しいです」

クラインは自嘲気味にくすりと笑った。
もう、ここから状況が好転することなど有り得ない。
どう足掻いても彼から向けられる眼差しが優しくなることはない。
それならば。

クラインはシャツの一番上の釦に手をかけると、一つ、二つと外し始めた。
彼女のしようとしていることを察したリヴァイは、既に寄っている眉間の皺を更に深くする。

「おい。これ以上ふざけた真似をするなら…」
「暴力でもなんでもしてください。あなたの眼に映してもらえるなら痛みつけられるのも本望です」

きっぱりと言い切ったクラインの涙はもう止まっていた。
代わりに、彼女は微かに笑みを携えてゆっくりとリヴァイに近寄る。
その思考の異常さにリヴァイは吐き気さえ覚えた。

たかが外れたらしいクラインは、もう何にも躊躇することはなかった。
勢いよくリヴァイの前に跪くと、彼のスラックスを降ろそうと手をかけた。

「おい…!」

彼女を振り払おうと手を上げた、その瞬間。

扉の方から何かが割れた音がした。


「っ、name…!」


開けっ放しだった扉の向こうに、固まったように動かないnameが立っていた。
漆黒の瞳は無感情に、ただ目の前の2人の様を見つめている。
不自然に空を持つ手には何も無い。
足元にはトレーと割れた皿と、溢れたスープが広がっていた。

「おい…」

リヴァイが声をかけると、nameはびくりと肩を揺らした。
二つの漆黒がゆっくりと動き、リヴァイの眼を捉える。
数秒の沈黙。絡み合う視線。
nameは無表情のまま、弾かれたように走り出した。


「name!!!」


すっかり注意が逸れていたクラインを投げ飛ばしてnameを追う。
すぐに執務室へと出たというのに、nameは既に廊下へと出ようとしていた。

「待て、name!」


呼びかけても彼女は振り返らない。止まらない。
痛む頭も気怠い体もなりふり構わずに、リヴァイはnameを追って部屋を飛び出した。



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