「うん、熱がある。見事に彼女からもらったみたいだね」
リヴァイの診察を終えたアルツ・バウマン医師はペンをカルテに走らせた。
09 奪われた鍵
今から1時間ほど前。
バスタイムとは別の熱気を引きずりながら、nameはバスルームを出た。
リヴァイによって隈無く綺麗にされた体を拭きながら、病み上がりの人間になんてことをするんだろうと文句を垂れる。
時計を見れば、もう互いに部屋を出る時間が迫られていた。
てきぱきとnameが服を着ていく隣で、リヴァイは珍しく身支度に時間がかかっている様子。
不思議に思って首をかしげれば、彼の頬はいつもより色付いて見えた。
もしやと思いその額に触れると、とても平熱とはいえない熱さだった。
それからリヴァイの着替えを手伝い(これがかなり大変だった)、仕事に遅刻する旨をロッティに伝えてからnameは診察室へと走った。
そして、アルツに出張診察をお願いしたのだった。
「恋人と仲がいいのは何よりだ。でも体調管理のために控えることも大事だよ、色々とね」
「すみません…」
リヴァイとnameの乾ききっていない髪を見ながらアルツは笑った。
なんだかもう、めちゃくちゃに恥ずかしくて顔を上げられない。
求めてくるリヴァイについ流されてしまった自分が情けなくさえ思える。
滅多に体調を崩さないリヴァイは、久しぶりの発熱に相当参っているようだった。
重たくなった頭を押さえて俯いている。
「リヴァイ、大丈夫?」
「お前…自分の時は散々医者から逃げるくせに」
「だって…」
指の隙間から覗いた眼が恨めしそうにnameを睨む。
「病院嫌いの彼女が迷うことなく診察室に駆け込んでくるくらい、想われてるってことだ」
羨ましいねとアルツは笑う。
鞄から薬を取り出すと、必要な分を袋に入れてリヴァイに手渡した。
リヴァイはぶっきらぼうにそれを受け取る。
どことなくアルツの雰囲気がエルヴィンに似ている気がして鼻についた。
「では、俺はこれで失敬するよ」
カルテや聴診器をしまうと、大きめの出張鞄を持ってアルツは立ち上がった。
「待て。いつもnameの足を診ている医者はてめえか?」
「そうだが?」
部屋を出ようとしたアルツをリヴァイは呼び止めた。
彼が一体何を言い出すのかとnameはヒヤリとする。
「nameの足が良くなっているのは良医に巡り会えたからだろう。感謝する」
彼の口から出たのは素直な謝辞の言葉。
それがあまりに意外で、アルツとnameは同時に目を丸くした。
「俺には病を治すなんて術ねえからな。自分の体でさえこのザマだ」
「医者だって治療法がわからなければ病には負ける。人間は誰しも完璧ではないよ」
「医者だろうが兵士だろうが同じらしいな。何者になろうと救える命には限りがある」
どんな名医でも、勇敢な兵士でも、全ての命は救えない。
リヴァイはnameを視界に捉えると、深い灰の眼を揺らした。
アルツは2人の顔を交互に見て小さく笑うと、「まあ少なくとも」と言葉を紡いだ。
「nameの回復は彼女自身の生命力だ。俺の治療はその手助けをしてるにすぎないよ」
栄養のある食事をとることや薬の飲む回数などを手短に伝えると、アルツは今度こそ寝室をあとにした。
「アルツさんありがとうございました。本当に無理言ってすみませんでした」
部屋の外でnameは申し訳なさそうに頭を下げた。
アルツは優しく首を振る。
「いや、構わないよ。彼は見かけによらず優しい男のようだね。君のことを一番に考えている」
「…私には勿体ないくらいの恋人です」
「そんなことはない。君達はお似合いだと思うよ」
アルツの言葉にnameは嬉しそうに微笑んだ。
ここへ来た頃より、彼女は随分健康的な顔になったとアルツは思った。
「そうだname、年内にもう一度診察に来てくれ」
「?わかりました」
「必ずね。じゃあこれで」
念押しするように言うと、アルツは白衣を翻して去っていった。
今月の足の診察はもう済んでいるはずなのに。
もう一度呼ばれるということは何か報告があるのかもしれない。
一抹の不安が過ぎる。
(今考えても仕方ない)
nameは頭を振ると、再び部屋へと戻った。
***
二日酔いで痛む頭を押さえながら、クラインは兵舎へと戻っていた。
寝坊はしなかったが、忘れ物をしてしまった。
「班長が来る前に取りに行ってこいよ」という先輩の言葉に甘えて、急ぎ足で部屋へと戻る。
昨日の今日でリヴァイと顔を合わせるのはなんだか気まずい。
酒の力に任せてあんなことしなければよかったと、心底後悔していた。
「わ!」
「あっ、ごめんなさい!」
角を曲がろうとしたところで人とぶつかりそうになった。
すぐに謝ってきた相手の顔を見れば、クラインにとって最も会いたくない人だった。
「あなたは、クラインさん?」
目を丸くしたnameが立っていた。
急いでいたのか、髪が乱れている。
「どうも…」
目を合わせたくなくて、俯きがちにクラインは会釈をした。
「よかった。今、班員さん達のところに行こうとしてたんです」
「え?」
「実は、リヴァイが熱で倒れてしまって…」
「は…?」
リヴァイ班長が熱で倒れた?
あんな強靭そうな男も病に伏せるのかとクラインは驚いた。
そして、昨日まで熱を出して倒れていたのは目の前の彼女の方ではなかったかと思い出す。
「その、あなたはもう大丈夫なんですか?」
「え?ああ…私はもう大丈夫です。昨日の飲み会、私のせいでリヴァイは欠席になってしまって、本当にすみませんでした」
リヴァイの欠席を謝るのと同時に、クラインに対して一方的な嫉妬心を向けていたことも、nameは心の中で詫びた。
「あなたはもう大丈夫か」と心配の言葉をかけてくれた彼女に、負の感情を向けるのは間違いな気がした。
「…班長の様子はいかがでしょうか」
「久しぶりの体調不良でかなり堪えてるみたいです。でも、診察を受けて薬も貰ったのですぐに良くなると思います」
「班長もnameさんも献身的なんですね。お互いの部屋を行き来するの大変じゃないですか?」
「あ、ええと…同室なので、そのへんはあまり手間ではないですよ」
気恥しそうに言ったnameの台詞にクラインは目を見張った。
同室ということは、つまり同棲しているということだ。
初耳の事実にクラインは驚き、同時に胸を痛めた。
そして、悪い閃きが彼女の中に生まれる。
「じゃあ、今日は班長はお休みということですね?」
「はい、申し訳ないんですけど、他の班員さんにも伝えていただけますか?」
「構いません。伝達ありがとうございました」
「いえ…では、これで」
ほっとしたように笑って、nameはクラインの横を通り過ぎようとする。
クラインはわざとふらついたフリをすると、nameにぶつかった。
「!大丈夫ですか!?」
nameは自分の方へと傾いたクラインの体を慌てて支えた。
顔を上げたクラインは困ったように、そして茶目っ気に笑って見せた。
「ごめんなさい、ちょっと二日酔いで」
「ああ、私も同じ経験あります。無理なさらないでくださいね?」
「ええ、nameさんも」
クラインの気遣いの言葉に微笑むと、nameは食堂の方へと向かった。
どうやらこのまま出勤するらしい。
クラインは彼女が立ち去ったのを確認すると、ゆっくりと右手を開いた。
その手に収まっていたのは、鍵。
リヴァイとnameが同室だと聞いて、真っ先に頭に浮かんだのが部屋の"鍵"だった。
nameのスカートの左右のポケット、どちらかに鍵が入っていると見込んでわざと転んだ。
そっと手を忍ばせれば、ビンゴだった。
鍵に表記されている番号を確認する。
クラインはくるりと向きを変えると、男兵舎へと向かった。