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膝を付く形で座らされたnameは、眼下にある景色を見ても不思議と恐怖を感じなかった。
高いところはあまり好きではないし、隣の男が自分を一押ししたら真っ逆さまに落ちる状況だというのに、抗う気力が起きない。

ただ、ここから落ちる前に大好きな彼の声を、もう一度聞きたいと思った。



16 世界にきた理由



この世界へ来て、初めてこんなに高いところに登った。
8階からの眺めは、この地下街では絶景とも、見晴らしがいいとも言えない。
いつも通りの常灯の街で、あちこちが橙色に光っている。
今が夜なのかも昼なのかもわからない。

眩暈がして視界がぐらつく。
眼下の地面が怪しく揺れて、まるで自分を飲み込もうとしているようだ。

(こんな所で、こんな死に方するなんて)

あの薬のせいか、死への恐怖はない。
けれど、頭の奥で"それでは駄目だ"と誰かが言っている。

「そろそろだな」

ハイトは時計を確認する。
二本の針は12の刻を過ぎており、日付が変わったことを示していた。
彼は意を決したように息を吐くと、nameの背中に手を置いた。

「あんたにはすまないと思ってる。けど…俺の守りたいもののために、死んでくれ」

ハイトの手に力が込められたのを感じる。

(こんな理不尽な死に方をするの?)

頭の中で誰かの声が聞こえる。

思えば、この世界に来てしまったこと自体、理不尽とも言える出来事だった。
逃げ出したかった思春期を終え、やっと一人で好きな生き方をしていこう思っていた矢先だったというのに、異世界へ飛ばされるなど有り得なさすぎる。
しかも、飛ばされた先がよりにもよってこんな地下街だなんて。
初めて自分の現状を理解した時の絶望は、きっと死ぬまで忘れない。


それでも、こんな暗く狭い地下街で出会えた人が自分に与えてくれたものは計り知れない。

初めこそ戸惑いばかりだったが、リヴァイやファーランと過ごす中で、ここでの暮らしも悪くないと思えるようになった。
イザベルも加わり、まるで本当の家族になったようで毎日が楽しかった。

そして、リヴァイを好きになって、一緒なれたことが本当に嬉しくて、幸せだった。
ここで彼等と過ごした数ヶ月は、元の世界での時間より満たされたものだった。

初めて心から人を好きになって、もしかしたら自分は彼に会うためにこの世界に来たのかもしれない、なんてことを、こっそり思っていた。

なのに───。

(死んだら、会えなくなる)

リヴァイにもファーランにもイザベルにも、死んでしまったら二度と会えない。
大好きなリヴァイの眼に自分の姿を写してもらうこともできない。

せっかく好きになれたのに。
一緒になれたのに。

私はまだ、あなたのことをちゃんと呼んだこともないのに。

こんな形で死ぬなんて。


「嫌だっ!…っリヴァイ!!」


「うっ!?」

nameの叫び声の直後、横から鈍い衝撃音とハイトの驚愕する声が聞こえた。

振り返ると、ハイトの肩から鋭利な刃先が突き出ており、彼のシャツは肩口から滲み出た血で赤く染まっていく。
驚いた目をハイトに向けると、苦痛に歪んだ彼の顔から汗が吹き出していた。

そして、彼の肩越しに、遠くにいる人影が見えた。
屋上の扉の前に立っているのは───。


「やっと見つけたぞ…name」


そこには、僅かに息を切らしたリヴァイが立っていた。
彼はナイフを投げた腕を下ろすと、彼らに近づこうと足を進める。

「リっ」
「来るな!!」

ハイトはnameの肩を掴んだままリヴァイの方を向く。
後ろを向いた彼の肩甲骨より僅か右にずれたところに、ナイフの柄の部分が見えた。
リヴァイが投げたらしいナイフは、ハイトの肩に見事命中し、貫通していた。

縛られたnameが掴まれているのを見て、リヴァイは足を止める。
リヴァイがこれ以上近づいてこないのを確認すると、ハイトは後ろから刺さっているナイフを思い切り引き抜いた。

「ぐっ…らあ!」

ナイフが引き抜かれたことでハイトの肩から血が溢れ出し、シャツの染みはどんどん広がっていく。
彼はそれに構うことなく、後ろからname抱き込むと、自身の血で汚れたナイフを彼女の首に突き立てた。

「…てめえ」

殺意を込めて睨みつけてくるリヴァイに、負けじとハイトも睨み返す。
しかし、多量に出血しているせいで呼吸は荒々しい。

「…どうしてここがわかった?」
「お前の姉からヒントを得た」
「!」
「あの女の身勝手に付き合うとは、姉思いで結構なことだな」
「姉さん…あんたのためにここまでやってるのに、自分からバラしてどうするんだよ」

リヴァイは無表情のまま、腰に備え付けてあるもう一つのナイフに触れた。
どうやって間合いを詰めようか思案していると、ハイトが徐に口を開いた。

「ねえ、この女を捨てて、姉さんのものになってくれないか?」

呼吸を荒く繰り返しながらハイトはナイフを持つ手に力を込めた。

「…何だと?」
「あんたさえ姉さんのそばにいてくれれば、姉さんはトラオムを辞められるんだ」
「…わけのわからないことを言うな。てめえらの身勝手に俺が付き合うわけないだろうが」
「そうだな、これは身勝手だ。姉さんは勝手にあんたに惚れて、嫉妬して、独占しようとしてる。でも、そんな身勝手でも叶えてやりたい……もう、娼婦として生きている姉さんを見たくないんだ!」

ハイトの叫びが屋上に響き渡る。
彼の瞳は、まるで泣きそうな少年のように揺れていた。
姉への思い、リヴァイとの対峙、そして、肩の傷も相まって彼の精神は錯乱し始め、もう冷静とは言えなかった。
震える切っ先がnameの首に触れ、肌に食い込むと、赤い筋が伝った。

「…ちっ、クソ野郎が」

nameの首に伝う鮮血を見てリヴァイは舌打ちする。
どうにかして彼女を奪おうにも、ハイトの精神錯乱状態を見る限り、無闇に近づくことはできない。

(どうにか隙をつくらねえと…)

このまま無為に時間が過ぎて、ハイトの体力が無くなるのを待つのも手だが、彼もその前に決着をつけようとするはずだ。
その決着は、nameの死を意味する。
リヴァイは腰のナイフを引き抜けないまま、苛立つように奥歯を噛みしめた。

「リヴァイさん」

沈黙し、睨みつけていたリヴァイを、掠れた声が呼んだ。

「name…?」

リヴァイは僅かに眼力を弱めてnameを見ると、彼女の様子がおかしいことに気づいた。
手足を縛られているとはいえ、力なく、ぐったりとした体。
焦点の定まっていない虚ろな目。掠れた声。

(どうしたんだ…?)

明らかに様子がおかしい彼女に不安感を抱き、眉間を寄せる。
リヴァイが口を開こうとした瞬間。
nameは乾いた唇を一度きゅっと結んだかと思うと、綺麗に微笑んだ。

「私、リヴァイさんに出会えてよかったです。最初はどうしてこんな世界に来たんだろうって思ったし、ここは私が自由に出歩くこともできないくらい怖い世界だけど」

リヴァイの好きな、いつもの彼女の笑みだった。

「私、リヴァイさんに出会うためにこの世界に来たんだと思います」

nameの言葉にリヴァイははっと目を見開いた。
心音が優しく高まっていく。
彼女のたった一言が、頭のもやを取り、クリアにしていく。

自分の隣にいることが不自由か。
元の世界に戻りたいか。

直接問うたこともない質問の答えを、もらえた気がした。


「name、それは別れの言葉か?」
「別れの言葉にはしたくないです…けど、いま伝えたくて」
「俺もお前に聞きたいことがある。だが、それはこの状況を片付けてからだ。…俺はお前を必ず助ける。だから──」

リヴァイは備え付けのナイフを握ると、今度は躊躇せずに引き抜いた。
ナイフより鋭い彼の双眼は、熱く強いものを感じさせる。

「俺を信じろ、name」

nameの瞳に光が差し込む。
確信的で迷いのないリヴァイの言葉に、心が突き動かされる。
nameは強くリヴァイを見つめ返すと、しっかりと首を縦に振った。

「はい…!」

その返事を最後に、リヴァイの目線はハイトへと戻る。
彼の足元には、シャツでは吸収しきれなくなった鮮血がいくつかの血溜まりを作っている。
息も絶え絶えな彼に詰め寄るのは、もう困難ではない。

リヴァイは全身に力を込め、目を見開くと、思い切り地面を蹴った。



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