5月になったある日のこと。
仕事に参加するようになったイザベルは、ここのところ忙しい毎日を送っている。
今日もお手の物になってきた立体機動で飛び回る。
(あれは…)
仕事に勤しむ中、一瞬だが、彼女の目は確かにそれを捉えた。
路地の間で力なく羽ばたこうとしているそれを。
降り立って路地の間を探せば、すぐに見つけることができた。
暗がりの中でその白い羽はよく映える。
怯えるように羽を動かすそれを、イザベルは優しく両手で包むと、そっと自分の方に引き寄せた。
掌の中で安心したように大人しくなった純白に笑いかける。
刺激を与えないようにそっとそっと歩きながら、イザベルは帰路についた。
家への帰り道、後ろからつけてくる人影があることに、彼女は気づかなかった───。
10 ブロンドと子猫
次の日の朝。
何度目になるか分からないイザベルのお願いに、nameは眉を下げて笑った。
「餌と水、ちゃんとやってくれよな?あと、そこから落ちたりしないか見ててやってくれ」
「うん、大丈夫。ちゃんと見るから安心して」
その返事も、もう何度目になるか分からない。
イザベルの頭を安心させるように撫でる。
そして、チェストの上で小首をかしげている可愛らしい鳥の頭も指先で同様に撫でた。
その鳥は、昨日イザベルが保護した子だ。
羽に巻かれた包帯が痛々しいが、昨日よりは元気になっているように見える。
家を出る直前になってイザベルがこうして頼みだしてから、かれこれ10分程は経つだろうか。
いつの間にか、玄関にいた2人の気配がなくなっている。
「イザベル、そろそろ行かないと2人に置いてかれちゃうよ?」
「へっ?あっ、待てよ兄貴ー!ファーラーン!」
開けっ放しになっている玄関の扉の向こうに2人の姿はなく、彼女は慌てて駆け出していった。
勢いよく扉が閉まった音を最後に、部屋には平和な静寂が訪れる。
nameはふう、と一息つくと、いつもの自分の仕事に取り掛かった。
***
できるだけ皺にならないよう、シーツをピンと張って干す。
地下街でも気温の変化を感じる。
ここのところ暑くなってきた。
あと一ヶ月もしないうちに6月になる。
この世界にも梅雨は存在するのだろうか。
地下街の洗濯物にも影響が出るだろうか。
ここに来てからというもの、つい先読みしようとする癖がついてしまった。
ふと、自分の誕生日が近づいていることに気づいた。
nameはもうすぐ20歳になる。
元の世界にいた頃は、自立を求めて、早く大人になりたいと思っていた。
残り少ない10代だと周りが惜しむように過ごす時間は、大人へのカウントダウンだった。
あと何ヶ月、と毎月のように数えていたくらいだ。
こっちに来てからはそんなことを気にすることもなく、毎日を生きるため必死に過ごしている。
指折り数えていたあの頃の自分は、余程暇だったのだと苦笑した。
(20歳になったら、リヴァイさんとファーランとお酒を飲んでみたい)
でも、そしたらイザベルは仲間はずれだってむくれてしまうだろうか。
想像した彼女が可愛くて、思わず口元が綻んでしまった。
「こんにちは」
突如後ろから聞こえた声に驚き、勢いよく振り返る。
そこにいたのは、地下街では眩しいくらいに輝くブロンドヘアーの彼女。
「あなたは…」
「シェーンよ。この間は来店してくれてありがとう」
一ヶ月ほど前に行った酒場で出会ったシェーンが、にこやかに微笑みながらすぐ後ろに立っていた。
階段を上がってくる音も気配も感じなかった。
あまりに不自然な登場に少し後ずさる。
「こんにちは…あの、どうしてここに?」
「下から偶然あなたを見かけたのよ。それで挨拶に」
「そうだったんですね……リヴァイさんなら出かけていますけど…」
「いいの、今日はあなたと話したかったのよ」
「私と…?」
nameはますます驚いて瞬きを繰り返す。
てっきり、彼女はリヴァイに会いに来たと思っていた。
「この間お店の装飾を褒めてくれたでしょう?あなたとは気が合いそうだと思ったの」
「ああ…」
店で話しかけられた時のことを思い出した。
心境穏やかではなかったあの時の自分が何と答えたのか覚えていない。
けれど、どうやら褒めるようなことを言っていたらしかった。
「ね、よかったらお茶をご馳走してくださらない?立ち話も何ですし」
「ええと……私は構わないんですけど、多分それをしたらリヴァイさんに怒られそうなので…」
「あら…そう。じゃあここでいいわ」
シェーンは階段に腰掛けると、隣の空いたスペースをぽんぽんと叩いた。
そこに座れということらしい。
家に招き入れるのを断った手前、それすらも拒否するというのは申し訳ない。
遠慮がちにシェーンの横に腰掛けると、長い階段と下の通りを見下ろした。
「ねえ、お名前は?」
「name・fam_nameです」
「珍しい名前ね…でも、可愛らしいわ」
シェーンの興味ありげな眼差しに少々の居心地悪さを覚えつつ、nameは小さく会釈した。
「シェーンさんは言葉遣いが丁寧ですね。地下街でシェーンさんのように綺麗に話す人は会ったことがありません」
「ふふ、ありがとう。仕事柄気をつけてるのよ」
「あのお店以外にもお仕事をされてるんでしたっけ?」
「ええまあ…でも、どちらも接客には変わりないわ」
あまり仕事については話したくなさそうだったので、nameはそれ以上聞かないことにした。
「私はあなたが羨ましいわ」
「え?」
「リヴァイの傍にいられて」
細められたシェーンの瞳は前に見た時と同じ綺麗な青色のはずなのに、なんだか前より少し暗く見えた。
彼女の口調は穏やかだが、言いし難い圧を感じる。
「この洗濯を見る感じだと家事が得意なのね。私家事って苦手だから尊敬するわ」
「そんな、大したことでは…」
「料理も得意なんでしょう?リヴァイの胃袋をしっかり掴んでるってわけね」
「……いえ、そんな大層なものではないです」
居心地の悪さを感じ、nameは段々と目線を外し、俯いた。
シェーンは口元にたたえていた笑みを消すと、その美しい顔をnameに寄せた。
そして、耳元で囁く。
「ねえ、リヴァイとは何回したの?」
「…えっ?」
言葉の意味を理解しきれず、nameは間抜けな声を出してしまった。
ただ感じたのは、シェーンの声色がさっきより低く、冷たくなっているということ。
「信じられないのよ。あなたみたいな女にリヴァイの食指が動くなんて」
「…………」
nameは黙ったまま、シェーンと目も合わせられない。
先程までにこやかに話していた彼女と同一人物だとは思えないくらい冷たい声色だった。
僅かに感じる程度だった女の敵意を、今ははっきりと向けられている。
一向に質問に答えないnameに、シェーンは首をかしげた。
「まさか、リヴァイに抱かれたことないの?」
「…あなたは、あるんですか?」
何故、こんなことを聞き返したのだろう。
その答えを聞いたら傷つくかもしれないって、想像できるのに。
「あるわよ」
シェーンはあっさりと答えた。
ドクンとnameの心臓が酷い音を立てて跳ねた。思い切りぎゅっと掴まれたように胸が痛い。
ほら、だから、聞かなきゃよかったのに───。
「彼って見かけによらずとっても情熱的にするのよ。私、それが忘れられないの」
「…………」
「ね、nameさん」
シェーンはより、nameの耳に唇を寄せた。
そして、口の端をつり上げて残酷に囁く。
「胃袋を掴んでるだけじゃダメなのよ」
「っ…!」
nameは思わずシェーンを突き飛ばして立ち上がった。
走ったわけでもないのに息が荒くなっている。
心臓が忙しなく動いて動揺を隠せない。
黒い、暗い感情が胸いっぱいに広がって、思考回路を遮断してしまう。
「り、リヴァイさんには…他にも素敵なところがたくさんあります…!」
「リヴァイ、"さん"?」
シェーンはnameを見上げたまま馬鹿にしたように鼻で笑うと、彼女と目線を合わせるように立ち上がった。
「どうしてさん付けなんてしてるの?そうやって律儀に敬語も使い続けてるの?」
「それは…」
「あなたがそんな風に遠慮して壁を作ってるから、リヴァイは抱いてくれないんじゃない?」
「……!」
急所を突かれるような痛みが胸を刺す。
シェーンの言う何もかもが、自分の直面している問題だった。
どうして彼はキス以上のことをしないのか。
自分はどうしていつまでたっても彼に距離を置いた接し方なのか。
こうした不安も、いつになったら言えるようになるのか。
毎晩のように悩んでいるくせに、彼の前では聞き分けよく、良い彼女のフリをする。
「あなたがリヴァイの恋人だっていう体で話してたんだけど、もしかして、付き合ってすらなかったのかしら?」
追い打ちをかけるようなシェーンの言葉に、nameはキッと彼女を睨みつけた。
nameの敵意の込められた眼差しに、シェーンは少し驚いたように目を丸くした。
「あら…そんな目をできるのね、あなた」
「…リヴァイさんとは、お付き合いしています」
「ふうん…。そういう目ができるってとこ、彼にも見せた方がいいわよ。攻撃的なところも我儘なところも見せないと、いい子なだけの女って男にすぐ飽きられるから」
「あなたには関係ありません…!」
自身に向けられた敵意さえ心地よさそうに、シェーンは喉の奥で笑った。
目の前にいるnameという女が酷く子供に見えて仕方がなかった。
何故こんな女をリヴァイが拾い、大切にしているのか、ますますわからなくなる。
子猫の威嚇のように睨みつけてくる彼女を見ていて、ふと、首元が目に付いた。
釦を外された襟の隙間から白い首が見える。
シェーンは口元を歪めると、素早くnameの肩を掴み彼女の首元に顔を寄せた。
そして、nameの白く柔い肌に歯を立てて、強く吸った。
「!?」
突然のことにnameは目を見開く。
チリっとした痛みが首元を走ったのに驚いてシェーンを突き飛ばそうとした。
しかし、それより先にシェーンは身を離し、せせら笑いながら頬に手を当てた。
「リヴァイはそんなこともあなたにはしないかしら?」
「な、何したの!?」
「綺麗な白い肌によく映えるわ…。ふふ、それを見たら、今夜あたりあなたを抱いてくれるかもね?」
nameは先程まで座っていた階段の数段を駆け上がると、急いで家の中へと駆け込んだ。
彼女が家に入り見えなくなったのを確認すると、シェーンは上がっていた口角を下げ、口元を結んだ。
冷ややかに、しかし、嫉妬に燃える青の瞳を扉の向こうの彼女に向けていた。