問答を繰り返すだけで夜はあっという間に更けていった。
nameは知り得た情報を頭の中で整理した。
この世界には巨人という脅威がいて、人類は強固な壁を作りその中で生活している。
壁は三層からなり、彼女が今いる場所はその一番中心の地下に当たる。
一見、最も安全な場所に思えた。
しかし地下街とは半ばスラム街のような場所で、環境は劣悪と言えるそうだった。
約100年も破られていない壁のお陰で地上には平和が続いており、この世界で一番危険な場所といえば皆、地下街だと口を揃えるらしい。
地上に行くには階段を登る必要があるが、その階段は地下商人に買収されており、高い通行料を払わなければならない。
地上へ行くのは容易ではないと、リヴァイは教えてくれた。
05 好条件
「行き着いた場所がこことは、とことん運がねぇらしいな」
リヴァイは自身が淹れた紅茶に口付けた。
まったくだ、と思いながらnameも紅茶を飲んだ。
芳しい香りと温かさが、強ばった体を少し解してくれるようだった。
そして意外に茶葉の味がしっかりとしていることに驚いた。
この粗暴な雰囲気の彼が淹れたとは思えないくらい、優しい味がした。
「なあ、お前これからどうするんだ?」
頬杖をついてファーランはnameに尋ねた。
nameは目を伏せている。
「……戻る方法を探します」
「ああ…まあな。そりゃそうだろうが…」
そんな単純な話ではないだろうことは、ここにいる誰もが分かっていた。
name自身がどうやってこの世界に来たのか覚えていないのだから、戻る方法を探すというのも雲をつかむような話だ。
ファーランは判断を仰ぐようにリヴァイを見た。
彼は常に無表情なのでわかりにくいが、考え事をしている様子だった。
やがて彼は組んでいた腕を解くと、その片方を椅子の背もたれにかけた。
「name」
nameはリヴァイを見上げた。
黒目が頼りなさげに揺れている。
リヴァイは、これまで見てきた人間とnameはやはり何かが違うと感じた。
淀みのない瞳は無垢で綺麗だが、ここで生きるには壊れ易すぎる。
「お前は自分がここで生きていけると思うか?」
「え…?」
「地上から流れ落ちた女は大抵体を売るようになる。それしか生きていく術がねぇからな。だが、そういう奴らは大抵覚悟を決めている」
地下に落ちた女は自分の運命を悟る。
男の慰みものになるしか道がないのなら、それは仕方のないことだと受け入れて。
身体を穢し心を荒ませ、地下の住人へと自分を染めていく。
そんな女をリヴァイは何人も見てきた。
「お前にはその覚悟があるか?」
「っ…」
思わず身が震えてnameは拳を握った。
リヴァイの表情はさっきと変わらず無表情のはずなのに、とても冷ややかなものに見えた。
一つ状況を飲み込んではまた次の現実を突きつけられる。
その速度についていけないだけでなく、リヴァイの問いかけはあまりに受け入れ難いものだった。
目覚めた先は異世界で、それがよりにもよってこんな無法地帯だったなんて。
真っ当に生きる道はない。逃げ場もない。
なら、そうすればいい?
握りしめた手が震えて止まらなかった。
指先が白く、冷たくなっている。
「…わっ…わたしには…無理です」
やっと絞り出せた声は、情けないほどに細く震えていた。
「だろうな。お前の場合、状況も違うが」
リヴァイは怯える彼女を笑うでもなく擁護するでもなく、あっさりと言ってのけた。
ガタッと音を立てて彼が立ち上がったので、nameは身を縮めた。
しかし彼は彼女の横を過ぎ、ケトルポットを火にかけた。
紅茶のおかわりがほしくなったらしい。
静寂になった部屋に火の音だけが聞こえる。
リヴァイは背を向けたまま青く揺れる炎を眺めていた。
俯くnameと相棒の背中を見比べながらファーランは思った。
(何か悪いこと考えてるな)
リヴァイが長くお喋りをしたあとに黙りを決め込むのは、駆け引きをするときだということをファーランは知っていた。
相棒のしようとしていることを思案する。
しかし、いくら考えてみても彼のすることは大抵予想がつかない。
結果的に良い方向に転ぶからいいのだが、今回は何を考えているやら。
「この家には空き部屋が一つある。そこを使え」
唐突なリヴァイの発言で沈黙は破られた。
ファーランは目を見開いた。
そうきたか、と彼は内心で呟いた。
そしてファーラン以上に目を丸くしたnameは、勢いよくリヴァイを振り返った。
「…えっ!?」
「ただし条件がある」
そう言ってnameを見たリヴァイは、既に結果を確信している表情だった。
自分が提示する条件を彼女が飲まないわけがないと踏んでいるのだ。
「部屋を貸す代わりに仕事をしろ」
「仕事…?」
「まずは掃除だ、毎日欠かさずやれ。妥協は許さねぇ」
それから炊事や洗濯など、リヴァイの提示した内容は一般的な家事作業だった。
「ただで間借りする代わりに、お前はこの家の使用人になる。知らない男共に奉仕するよりマシな話だと思わねぇか?」
マシどころか充分すぎる好条件だった。
掃除も炊事も洗濯も、nameにとって苦ではない。
彼女が驚きで瞬きも忘れていると、リヴァイが返答を急かした。
「おい、やるのかやらねぇのか返事をしろ」
「…やります!」
「決まりだな。明日から頼むぞ」
「はい、よろしくお願いします。リヴァイさん、ファーランさん」
nameは立ち上がると、彼らそれぞれに深々と頭を下げた。
ちょうど湯が沸いた。
リヴァイは慣れた手つきで紅茶を淹れると、満足そうにそれを飲んだ。
***
ファーランはソファに横になると適当に毛布をかけた。
今日はとても長い夜だった。
この家には確かに空き部屋がある。
しかし掃除が行き届いていないことを理由に、リヴァイは解放を許さなかった。
それでは今晩nameの寝る所がないと、ファーランはベッドを彼女に明け渡し、自分は共同スペースのソファで寝ることにしたのだ。
リヴァイは蝋燭の火を消し始めた。
「まさか住まわせるとは思わなかったな」
「最近は仕事が忙しいせいでまともに掃除ができてねぇ」
「だから代わりにやってもらおうってわけか。あの条件なら、リヴァイにもnameにも願ったり叶ったりだ」
リヴァイの言う通り、最近の彼は掃除に関して自主的に動く余裕はないようだった。
仕事の忙しさゆえ仕方のないことなのだが、彼の中ではかなりフラストレーションになっていたらしい。
「貴族の娘じゃなくて残念だったな」
「うるせぇ…さっさと寝ちまえ」
「まあいいんじゃないか。可愛いしさ」
リヴァイは最後の火を消すと、階段を上がって行った。
暗闇が眠気を誘う。
ファーランは欠伸をすると毛布をかけ直した。
理由や事情がどうであれ、ひとつ屋根の下に異性がいるというのは悪くない。
これから始まる生活に何か期待してしまう自分がいた。
こうして、3人の生活が始まることとなった。
843年の、地上は肌寒くなってきた頃のことだった。