鞄だけを乱暴に掴むと、nameは急いで玄関へ向かった。
後ろから叔母の声が聞こえた。
しかし、足を止める余裕はなかった。
鞄のベルトを持つ手は震えている。
心臓がどくどくと脈打つのが耳の奥で聞こえて、気持ちの悪い音だと思った。
01 新月
都内の大学に通うfam_namenameは、世話になった叔母夫婦の家に、久しぶりに"お邪魔"しに来ていた。
一時期は住んでいた家なのだから"帰ってきた"と言うべきなのだろうが、そうは言えないほど、彼女にとってこの家は居心地が悪かった。
足が重い。
この家に入る時、いつも全身が緊張で縛られ汗がふき出す。
nameは険しい表情で引き戸を開けた。
「あの…帰りました」
「ああ、おかえり。居間においで」
にこやかな叔父を見て、よりによって、とnameは思った。
一番会いたくない人だった。
nameが初めてこの家に来たのは12歳の頃。
両親が事故で他界したのがきっかけだ。
事故直後のことを彼女はあまり覚えていない。
突然のことに放心状態で、気づけば叔母夫婦の家に引き取られることが決まっていた。
叔母は母方の姉で、少し神経質なところがあった。
対する叔父は温厚そうな人だった。
違和感を覚えたのは暮らし始めてすぐのこと。
きっかけは叔父のボディタッチだった。
叔父はことあるごとに、nameのどこかしらに触れるのだ。
笑顔を絶やさない様子に、初めは可愛がってくれてるのだと思った。
しかしある日の夜、それは間違いだとわかってしまった。
脱衣室で着替えているのを覗かれていたのだ。
優しく細められた叔父の目は邪なものだった。
住み始めこそ優しかった叔母も、叔父の様子に気づいてからはnameにきつく当たるようになった。
逃げ出したいと強く思った。
行くあてなどどこにもないのに。
生きるためには耐えるしかないと悟った日、nameは自身の肩を抱いて一晩泣いた。
そして、両親が死んだ運命を呪った。
そんな暗澹とした生活は約3年で終わりを告げた。
nameは都立高校の進学を決めたのだ。
通学が往復で4時間以上かかってしまうのを理由に、一人暮らしすることをお願いした。
叔父には猛烈に反対された。
その時、初めて温厚な叔父が怒るのを見た。
最後は嫌々ながらも、担任教師の説得と本人の固い意志に負けて首を縦に振った。
その時のことはよく覚えている。
もう、嬉しくて堪らなかった。
早くあの家を出たくてその日のうちに荷造りを始めてしまったくらいだ。
学費は奨学金に頼りながら、両親の残してくれた遺産や保険金、そしてアルバイト代で支払っていた。
学業、家事、アルバイトの生活は常に忙しいが、心休まる家があれば耐えられた。
しかし、未成年の学生故に様々な書面で保護者の署名と捺印が必要となる。
今回の帰省も、アルバイトの保護者署名と承諾印を貰うためだった。
「おかえり」
台所から叔母の平淡な声が聞こえた。
包丁がまな板を叩く音がする。
丁度夕食時だ。
叔父はnameを居間に通した。
正座して向き合っても目を合わせられない。
しかし、叔父が柔和な笑みを浮かべてこちらを見ているのはわかる。
この人の表面的な笑みが苦手だった。
nameは鞄から書類を取り出してちゃぶ台に置いた。
そして頭を下げた。
「…署名と捺印をお願いできますか」
「ああ、どれどれ」
「…………」
叔父はペンを取るとあまり書面に目を通すこともなく名前を書き始めた。
高校合格以降、叔父から何かを反対されたことは一度もない。
大学受験の時も東京の学校にするのか、と聞かれただけで何も言ってはこなかった。
もしかしたら叔父はもう、自分への興味関心がなくなったのではないかとnameは思い始めていた。
否、そうであってほしい。
この人との関係を断ちたかった。
叔父が捺印をしたのを見届けたnameはほっと胸を撫で下ろした。
膝の上にある拳を見つめる。
こうした署名もこれで最後にしたい。
あと数ヶ月待てば自分は成人。
それから2年もすれば社会人になれる。
全てを自分で決めて歩んでいける。
(あとは自由に生きる)
早く、早く大人になりたい。
突然の違和感にnameは目を見張った。
俯いていたがために気づかなかった。
叔父が静かに立ち上がり、彼女の横に移動してきたことに。
はっとした時には叔父の体は密着しており、下半身が腰あたりに押し当てられていた。
触れている股間部分が膨張しているとわかり全身が粟立つのを感じた。
頭が真っ白になった。
「っ…!!」
気がつけば叔父を突き飛ばしていた。
手が震えている。
怖くて、顔を見ることができない。
悲鳴さえ上げられなかった。
そしてnameは鞄だけを乱暴に掴むと、家を飛び出した。
nameは早足で坂を下っていく。
動揺が収まらなかった。
道が続く方へ、ただ歩き続けた。
しかし、曲がり角で自転車とぶつかりそうになった時、驚きで頭が一気に冷えた。
気づけば家からも駅からも、かなり遠いところまで来てしまっていた。
(帰らなきゃ)
あの家ではなく、自分の家に。
スマートフォンを探そうと鞄を開けて、nameは気がついた。
「あっ…」
(書類忘れてきた)
落胆を隠しきれず溜息をつく。
取りに戻ろうか。
一体どんな顔をして戻ればいい?
季節は秋。
ひんやりとした風が頬を撫でた。
微かに寒さを感じて腕をさする。
nameは暫くその場で迷っていたが、力なく頭を振って歩き出した。
(書類は必要だけど…今日はもう無理)
アルバイト代で生計を立てているnameにとって、あの書類を持って帰れないのは死活問題だ。
しかし、叔父と顔を合わせる気力はもうなかった。
今日はとても疲れた。
あの家に戻ったことで精神的にかなり参っていた。
nameはふと空を仰いだ。
星がいくつも光り、空はいつの間にか夜の顔になっていた。
東京よりは星がよく見える気がする。
彼女にとっては息苦しい土地だが、ここは空気が澄んでいる土地だ。
やがて彼女はあることに気がついた。
(月がない)
雲一つない晴れた夜空なのに月がない。
ぼんやりとその理由を考えたが、すぐに答えは見つかった。
今日は、新月だった。
頼りない足取りで駅まで歩きながら、nameは色んなことを考えた。
これまでのこと、これからのこと。
あの家に居場所はなかった。
友達はいたし、彼氏がいたこともある。
けれど、12歳の頃からある孤独感が年々、自分を蝕んでいっているような気がした。
(…やめよう。悲劇のヒロインもいいとこだ)
疲れているせいで普段考えないことも考えてしまう。
悲観することは解決にはならない。
早く帰って今日はすぐに寝てしまおう。
嫌なことには蓋をして、普段は思い出さなければいいのだから。
そう思うのにどうしてか、胸の奥の疼きは治まってくれそうになかった。
nameはもう一度、空を仰ぐ。
誰にも聞こえない声で呟いた。
「私を必要としてくれる人に会いたいな」
姿を隠した月に、こっそりと打ち明けられた願い。
落ちた言葉は秋の風に持っていかれた。
それはどこまで運ばれて、どこで消えるのだろう。
***
nameが駅のホームに降りると、丁度電車が来たところだった。
この時間帯の上り電車は空いている。
乗客はかなり疎らだ。
乗り込んだ車両には彼女の他に人はおらず、貸切状態だった。
三人掛けの座席に座って壁に凭れた。
揺れが心地いい。
nameは睡魔に襲われた。
瞼が重くて、とても眠かった。
うつらうつらとしているうちに、彼女はとうとう意識を手放した。
───電車は、トンネルを進む。
数秒ほどして電車がトンネルを抜けた時。
車両からnameの姿は消えていた。