「兵長、nameは午後からにしてもらえませんか?体調が優れないみたいで、医務室へ寄るそうです」
朝の集合時、声をかけてきたペトラは浮かない顔でそう言った。 リヴァイは一瞬目を見張ったが、すぐ平静を装って「そうか」と呟いた。
昨晩の嵐のようなキスと吸血を思い出す。 涙声のnameの告白を聞いたとき、彼はある感情を自覚した。 もう、それを無視することは不可能だった。
その瞬間だ。 甘美な彼女の血が毒になるのがわかった。
19 抗えぬ感情
消毒液特有の匂い。 この白い空間はいつもそれで充満している。 リヴァイが医務室を訪れると、デスクで書類をしたためていた医務員が顔を上げ、意外そうな表情を浮かべた。
「あら?珍しいですわね」
リヴァイがここを利用することは滅多にない。
「部下がここに寄ったか?」 「ああ、name・fam_nameさんですね。リヴァイ兵士長の班の方でしたか」 「容体はどうだ」 「…やや重めの貧血といったところでしょうか。女性なので貧血は珍しくはないですが、訓練をしている兵士でここまで症状が出るのも珍しいです」
医務員によると、nameの最も重い症状は眠気と倦怠感らしい。 なかなか疲れがとれにくい状態にあるという。
リヴァイは眉根を寄せ険しい顔をした。 先日、彼女が訓練中に失態をした理由はそれもあったのかもしれない。
「回復しなければ次の壁外調査は厳しいかと」 「…そうか。部下が世話になった」 「まだそちらでお休みですよ」
医務員が指したのはリヴァイの後方のカーテン。 nameは奥で眠っているらしい。
体が辛いのであれば今日はこのまま休んでいたっていい。 次の壁外調査は班から外すことも視野に入れなければならない。 それほどまでに、彼女の体は蝕まれている。 化け物の。いや。
(俺の責任だ)
リヴァイは奥歯を噛み、拳を握った。 沈黙したままカーテンを睨みつけている彼を、医務員は遠慮がちに覗き込んだ。
「提出する書類があるので少し部屋を空にします。顔色がいいようでしたら、nameさんは帰ってもらって大丈夫ですので」
リヴァイが頷くと医務員は一礼して医務室を出ていった。 足音が遠のき、室内に静寂が流れる。 彼は小さく息を吐くとカーテンを開けた。
「…………」
ベッドが膨らんでいる。 白の中心に彼女の髪色が際立って見えた。 リヴァイは足音を立てぬよう近づいて、nameの顔をそっと見下ろした。
(白い…)
白の枕に沈むアイラの顔は、血の気が失せた死人のように真っ白だった。 普段は血色のいい唇も乾いてしまっている。 医務員はやや重い貧血と表現したが、リヴァイには"やや"程度には思えなかった。
つけた傷は血で塞ぐことができる。 しかし、失った彼女の血液までは再生できない。
「この関係に終止符を打つべき時が来たようだ」
リヴァイは低く呟いた。 この体になってから充分すぎるほどに助けられた。 何度痛い思いをさせたことだろう。
「当面、訓練も壁外調査も参加は許さん」
何よりも傷つけていたのは彼女の心の方だったと、昨晩の涙で思い知った。
「お前を班から外す」
これ以上近くに置いては更に傷つける。体はもとより、心の方を。 血の授受関係である限りずっとそうだ。 お前は俺の心を欲し、俺は───。
「俺はじき死ぬだろう」
鮮明に、その未来が見えるのだ。
「いや、です」
不意にか細い声が聞こえ、リヴァイは虚をつかれた。 nameの瞼が持ち上がっていた。
「どうして兵長が死ぬんですか。そんなの嫌です」 「…起きていたのか」 「班から外れるのも納得がいきません。確かに訓練中に失敗しましたけど、それと体の不調は関係ありません…!」
nameの声は少しずつ強みを帯びた。 上官を見上げる瞳は水膜を張るが、その奥にある芯は揺るがない。
「吸血鬼は傷を癒せても血を再生することはできねぇらしい。その皺寄せでお前の体は悲鳴を上げ始めている」 「でも…じゃあ兵長はどうするんですか?吸血衝動の頻度は増えているのに」 「自分のことだ。なんとでもする」 「なんとでもって……!まさか…、死ぬってそういう意味ですか?」 「…………」
リヴァイの無言のまま答えない。 それを肯定と受け取ったnameは矢庭に体を起こし、頭を振った。
「そんなこと、あっていいはずがありません」
nameはリヴァイの袖口を掴んだ。
「私の血を使ってください。体が弱ってもいい。班から外されても構いませんから…!」 「もうよせ。罪滅ぼしだと言うならお前はもう充分にやった」 「違います!私は罪滅ぼしのためにこんなことを言ってるんじゃありません…ただ」 「わかってる。お前の気持ちは」
nameは何か言いたげに口を開いたが、すぐに噤んで次第に目を伏せた。 袖口から彼女の手が離れる。 痛い沈黙が流れた。
「昨晩、中庭で会っていたのは同期なんです」
ぽつりとnameは言った。 彼女が何故このタイミングでその話題に触れたのか、リヴァイには理解できない。
「彼の告白に返事をして立ち去ろうとした時です、抱きしめられたのは」
暗がりで見た男女のシルエットを思い出す。 頭に血が上っていた時は妙に生々しく脳内に浮かんだが、今はぼんやりとした影しか出てこない。
「きちんとお断りしてあります。ですから…昨晩の私の言葉は、嘘ではありません」
どうやらnameは弁明をしたかったらしいとリヴァイは気づいた。 知り得た事の顛末に安堵すると同時に、胸の奥に鈍い痛みを覚えた。 昨晩あんなことをした自分に、彼女はどこまでも寄り添ってくる。
「だから、兵長の力になりたいんです」
見上げてくるnameの瞳が揺れる。 彼女が瞬きすると涙が溢れ、白い頬を伝った。 リヴァイはnameの頬へと手を伸ばすと、涙を親指で拭った。
「わからねぇな…何故そこまで」 「本当…どうして、でしょうね」
困ったように眉を下げてnameは笑う。 その笑みは普段より随分と弱々しく、そして痛々しかった。
「自分でもどうしようもないくらいに好きなんです」
心臓が大きく脈を打つのをリヴァイは感じた。 ぞわりと全身に鳥肌が立つ。 ここから離れろと本能が告げている気がした。 しかし、彼女に触れた手は頬から後頭部へと移動する。
「兵長…?」
見上げるnameの瞳の奥には困惑と期待の二つがあるような気がした。
駄目だ。 もう、解放してやりたいのに。 思いとは裏腹にリヴァイはnameを引き寄せる。
真っ直ぐに自分を映してくれる彼女がいとおしく、欲しいと思ってしまった。 どうしようもないほどに。
窓から入った風が、彼らを隠すカーテンをはためかせた。 揺れる白に囲われた空間で、リヴァイはnameを抱きしめていた。
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